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第15回 物流と通運業――鉄道貨物輸送のクロノロジ-(年代記)―

  • 2009-12-25 (金) 9:00
  • 物流

 国鉄貨物輸送のコンテナ化は、単純に考えればコンテナ車を導入すれば事足りると思われるが、実際には大改革であった。前回述べたように、対抗輸送機関のトラック輸送と競争していくためには駅施設から列車体系にいたるまですべての改革が不可欠だからである。貨物輸送でも急ぐ貨物は旅客輸送(旅客局扱)であった。専門家なら誰でも知っているように旅客局扱は手小荷物(手荷物・小荷物)であった。旅客局から手小荷物が消えたのは昭和49年(1974年)であった(荷貨一元化)。私の記憶ではアメリカでも、その前後に鉄道から消えてトラック輸送に転換した(大和運輸の宅急便の開業は昭和51年(1976年)である(REAからUPSへ)。

 国鉄コンテナ輸送の展開は3期に分けられる。第1期は地域間急行列車時代である。この段階は地域間急行の段階であるが、この「地急時代」のコンテナ輸送は「フレートライナー導入以前のコンテナ輸送」という方が正確かもしれない。当時の記録(当時の私の論説「協同一貫輸送をめぐる2つの問題」輸送展望74年11月号)によれば、昭和40年代に急増している(39年(1964年)115万トン、42年(1967年)500万トン、46年(1971年)1,000万トンにまで達している。)。このころにはフレートライナー(列車の直行化、昭和44年(1969年))が現れ、途方もない大きな輸送量になるという期待があった。昭和46年に発表された「運政審46答申」には4億トンという予測値を出した。この数字が異常であることはいうまでもないが、それくらい新しい高速直行輸送に期待をかけていたのである。「旅客新幹線貨物在来」(磯崎ドクトリンだと記憶している)という新幹線中心の鉄道輸送の役割にたいする1960年代の国を挙げてのスローガンの中には貨物は含まれていなかった。貨物局は離れ小島であった。そんな中での改革であった。経理局の叱咤(改革論)と貨物局(現場論)の対立は経理局が貨物局の背中を押すという展開であるが、対立的強調(弁証法的な言い方でいえば足を蹴飛ばしあいながらのアウフへーベン)がコンテナ中心の大改革だったとみることもできる。

 第2期はフレートライナーという高速列車体系の導入期である。このときのイニシアテイブは運輸省の原田昇左右氏(後の建設大臣)であった。高速直行ないしは直行輸送という言い方もそのころではなかったか。第3期は10トンコンテナによる通運事業法15条指定業者(路線トラックの国鉄利用)の参入以後である。ここではこの問題に触れる前にコンテナ輸送導入のもつ意味をはっきりさせておく必要があろう。

 ごく最近国鉄コンテナに関する上下2巻の著書が出版された。吉岡心平著「国鉄コンテナのすべて」(RMライブラリ、ネコ出版、2009年9月)がそれである。専門家の知人から教えていただき手元にあるが、詳しく書かれている内容のある出版物である。コンテナ車にもこんなに多くの種類があるのかというほどあるのに驚嘆した。コンテナ化やパレット化は当初はユニタイゼーション(ユニット化)と呼んでいた。いまでもそうであるが「戸口から戸口へ」というのが売り物であり、いわば輸送システムの完結型を目標にしていた。それはなぜかといえば、いうまでもなく輸送システムとして自動車輸送を「対抗輸送手段」と位置づけていたからである。端末輸送はどうしても自動車を利用しなければならない。システム的にはごく当たり前のことであるが、そうしなければ自動車輸送に対抗できないというのが旧来の鉄道輸送関係者のトラウマであった。ところが端末輸送となれば工場であれ商店であれ戸口から戸口へというわけにはいかない。都市の中心までとなれば大きな単位の輸送は阻まれる。ここで本音と建前の矛盾に直面する。本線輸送の大単位輸送が機能するためには大規模ターミナルが必要になるが、それは事実上困難である。このデイレンマは大きかった。

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