岡田清先生の「物流清話」
第17回 物流と通運業――アメリカの少量物品輸送の変遷(2)―
- 2010-02-25 (木)
- 物流
前回は、アメリカにおけるフォワーダについて述べた。日本流にいえば通運業であるが、今回はアメリカの通運業、中でもREA(レールウエイ・エクスプレス・エイジェンシー)が航空フォワーダに結局負けて廃業にいたるプロセスについてそのさわりの部分を述べておきたい。
REAが衰退し、航空フォワーダが急増したのはなぜかをはっきりさせておきたかったからである。航空フォワーダはエアラインと違って,本線区間(ラインホール)以外の業務を行うことできるが、アメリカの民間航空局(CAB,1938年創立)が認可権をもっていた。航空フォワーダが急増したためREAは衰退していったというわけである。
航空フォワーダは、見る見るうちにREAの領域に進入した。1964年には100社であったものがわずか10年後の1973年には318社になった。営業収入も318万ドルから1625万ドルに急増した。ラインホール(本線)以外は航空フォワーダの時代になったといってよかろう。その結果、REAは1975年2月に遂に破産した。その理由は経営の怠慢なのか、それとも放漫経営なのか。規制政策を航空フォワーダに有利に運用したことが急増した原因であるというのが通説となっている。REAは前回も述べたように鉄道が出資して設立した会社である。そこに規制のゆるい航空フォワーダが進出してきて見る見るうちに市場を席巻した。これは単に経営の努力ではいかんともしがたい政策の問題である。ここに規制政策をめぐる政治と経済の複雑な関係が生まれる(それはどこの国でも同様である。)。特にアメリカの鉄道業の歴史はヨーロッパ資本(外資)を巻き込んだ歴史であり、アメリカ史を彩ったドラマであった。一昨年の金融危機とは様子は違うが、カネが踊ったという点では共通している。
もちろんアメリカのターミナル業の争いは独立規制委員会(ICCとCAB)をバックにした航空対鉄道の戦いという要素を秘めているのである。ところがアメリカのターミナル業はここから近代化の一歩が始まるのである。航空フォワーダ対抗の手段が「ピギーバック」である。これは周知のように。コンテナと同じ単なる箱でしかないが、TOFC(トレーラー・オン・フラットカー:trailer on flatcar)がそれである。これは単に荷役の合理化だけでなく、フォワーダの資本装備になり、省力化になるから、それはそれで問題(所有と負担の関係)が発生する(運輸関係の労働問題の多くが近代化投資による。)。
これは大変困難な問題を発生させるが、ここでは特に言及を控える。とはいえTOFCは、それがやがてインターモーダル輸送の中心になり、大きな足跡を残した。このような一連の改革を「物流革新」と呼ぶが、その内容は「インターモーダル輸送」であり、確かに格段の進歩をした。これまでも物流革新については多くが語られてきた。
今回は話がどんどん飛躍しアメリカのターミナル業の発展史から鉄道業と航空業のドラマについて述べた。この種の話は机上の理論や紙の上からは知ることのできない話である。古老から話を聞いて記録に残す作業「オーラルヒストリー」が盛況である。通運業あるいはフォワーダ業についても「ピギーバッキング」の発展史は駅の効率にとっても大変重要である。いま金融業について「証券と銀行の関係」(ユニヴァーサルバンキング問題)が注目されているが、アメリカでは運送業の「マルチモーダル会社」について論争が展開された歴史があるので少しふれておきたい。
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第16回 物流と通運業――アメリカの少量物品輸送の変遷―
- 2010-01-25 (月)
- 物流
前回はコンテナ輸送の導入をめぐる経緯について述べたが、それに関連してさまざまな問題が派生して起こった。たとえばコンテナの中の荷崩れが起こったためシートパレットや胴巻きを利用するという補助作業の問題からコンテナの駅頭滞貨の問題など結構細かい問題がある。コンテナが荷主の庭先に行ったまま返ってこないなどはいい方であり、行方不明の空コンの問題などの問題もある。そこで責任のなすりあいが起こることも少なくない。現場担当者の苦労が忍ばれる。この種の問題は外の人間にとっては目配りも気配りも届かない。中でも「荷傷み」の問題は運送業にとっては古くから大きな問題であった。輸送という見た目には易しい行為の社会関係は複雑な「責任の塊」であることは理解しづらいところである。
今回は、アメリカの通運業の「小史」について述べておきたい。もともと通運業は大きなものを「小分け」(break bulk)することに運送の商機を見出す行為である。これだけいえばなんだそれだけかと受け止める御仁があるかもしれないが、抽象的な言い方をすれば時間、空間、情報のギャップ(差異)を利用して商業マージンを稼ぐ行為であるから、金融業、商業、情報・通信業などと似性質を多く持っている。これらの産業を足し算すれば国民経済の大半を示すことになる。その対価としての賃率・料金は扱い数量に応じて低減(taper)するのが普通であり、そのことが利潤の基になるのである。
そんなことから通運業の主業務は「少量物品(small shipments)を集約した形で都市間ルートを動かすことである」(R.C.Lieb米・ノースウエスタン大学教授、1978年)。この定義から分かるように、通運業は自ら運送行為を行うかどうかは関係がないことになる。フォワーダの収入は75%がラインホール・キャリヤーに払い出される。いまでは廃止されたがかつてのICCの規制法のもとで通運業(Surface Freight Forwarder)といえば自動車運送業、鉄道業、水上運送業を利用して運送する運送業である。最近は「サーフェイス(地表)運送」という言い方はほとんどなくなったが、かっては航空郵便に対して「地表郵便」というのがあった。航空と地表という区分はあまり意味がないように見えるが、CAB(アメリカ・民間航空局)がサーフェイス・フォワーダをエアフォワーダに拡張して地表(陸上)の場合に比べて、より弱い基準の免許を発布したため、エア・フォワーダ(航空免許業者)が一挙に増えた。その結果、鉄道フォワーダが減少したという出来事があった。他方、1960年代初めにはICCは「ピギーバック・プラン」(次回)による大量輸送をフォワーダに認めたため「ピギーバッキング」(ピギーバック化)が進んだ。
少しばかり話が紛らわしくなったかもしれないが、アメリカ版荷物会社であるREAについても述べておきたい。REA(Railway Express Agency)は1929年に設立された少量貨物を集貨して鉄道輸送に寄託するための会社(鉄道会社の共同出資会社)であるから、かつての国鉄の荷物会社と似た会社であり、鉄道、トラック、航空の複合輸送もできるという特色をもつ会社であった。それぞれの部門の輸送が郵便、UPS,都市間トラック輸送と競争的であった。1960年代の終わりには鉄道会社から財政的に独立したが、1975年2月に破産宣告して、国鉄の荷物会社と同じ運命をたどった。
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第15回 物流と通運業――鉄道貨物輸送のクロノロジ-(年代記)―
- 2009-12-25 (金)
- 物流
国鉄貨物輸送のコンテナ化は、単純に考えればコンテナ車を導入すれば事足りると思われるが、実際には大改革であった。前回述べたように、対抗輸送機関のトラック輸送と競争していくためには駅施設から列車体系にいたるまですべての改革が不可欠だからである。貨物輸送でも急ぐ貨物は旅客輸送(旅客局扱)であった。専門家なら誰でも知っているように旅客局扱は手小荷物(手荷物・小荷物)であった。旅客局から手小荷物が消えたのは昭和49年(1974年)であった(荷貨一元化)。私の記憶ではアメリカでも、その前後に鉄道から消えてトラック輸送に転換した(大和運輸の宅急便の開業は昭和51年(1976年)である(REAからUPSへ)。
国鉄コンテナ輸送の展開は3期に分けられる。第1期は地域間急行列車時代である。この段階は地域間急行の段階であるが、この「地急時代」のコンテナ輸送は「フレートライナー導入以前のコンテナ輸送」という方が正確かもしれない。当時の記録(当時の私の論説「協同一貫輸送をめぐる2つの問題」輸送展望74年11月号)によれば、昭和40年代に急増している(39年(1964年)115万トン、42年(1967年)500万トン、46年(1971年)1,000万トンにまで達している。)。このころにはフレートライナー(列車の直行化、昭和44年(1969年))が現れ、途方もない大きな輸送量になるという期待があった。昭和46年に発表された「運政審46答申」には4億トンという予測値を出した。この数字が異常であることはいうまでもないが、それくらい新しい高速直行輸送に期待をかけていたのである。「旅客新幹線貨物在来」(磯崎ドクトリンだと記憶している)という新幹線中心の鉄道輸送の役割にたいする1960年代の国を挙げてのスローガンの中には貨物は含まれていなかった。貨物局は離れ小島であった。そんな中での改革であった。経理局の叱咤(改革論)と貨物局(現場論)の対立は経理局が貨物局の背中を押すという展開であるが、対立的強調(弁証法的な言い方でいえば足を蹴飛ばしあいながらのアウフへーベン)がコンテナ中心の大改革だったとみることもできる。
第2期はフレートライナーという高速列車体系の導入期である。このときのイニシアテイブは運輸省の原田昇左右氏(後の建設大臣)であった。高速直行ないしは直行輸送という言い方もそのころではなかったか。第3期は10トンコンテナによる通運事業法15条指定業者(路線トラックの国鉄利用)の参入以後である。ここではこの問題に触れる前にコンテナ輸送導入のもつ意味をはっきりさせておく必要があろう。
ごく最近国鉄コンテナに関する上下2巻の著書が出版された。吉岡心平著「国鉄コンテナのすべて」(RMライブラリ、ネコ出版、2009年9月)がそれである。専門家の知人から教えていただき手元にあるが、詳しく書かれている内容のある出版物である。コンテナ車にもこんなに多くの種類があるのかというほどあるのに驚嘆した。コンテナ化やパレット化は当初はユニタイゼーション(ユニット化)と呼んでいた。いまでもそうであるが「戸口から戸口へ」というのが売り物であり、いわば輸送システムの完結型を目標にしていた。それはなぜかといえば、いうまでもなく輸送システムとして自動車輸送を「対抗輸送手段」と位置づけていたからである。端末輸送はどうしても自動車を利用しなければならない。システム的にはごく当たり前のことであるが、そうしなければ自動車輸送に対抗できないというのが旧来の鉄道輸送関係者のトラウマであった。ところが端末輸送となれば工場であれ商店であれ戸口から戸口へというわけにはいかない。都市の中心までとなれば大きな単位の輸送は阻まれる。ここで本音と建前の矛盾に直面する。本線輸送の大単位輸送が機能するためには大規模ターミナルが必要になるが、それは事実上困難である。このデイレンマは大きかった。
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第14回 物流と通運業――鉄道貨物輸送のクロノロジ-(年代記)―
- 2009-11-25 (水)
- 物流
前回は、国鉄貨物輸送のクロノロジー(年代記)について述べたが、いまから振り返ってみればたから号の試運転(昭和34年)からフレート・ライナーが導入された昭和44年(1969年)の10年間は国鉄の歴史はじまって以来の激動期であり、いまにして思えばよくも生き残ったという感じの方が強い。それは識者からの批判があったからというより、日本経済の工業化(重化学工業化)、技術革新による新製品の急増、エネルギー転換など日本経済の高度成長を特徴づけるさまざまな変化の鉄道輸送との親和性(鉄道経済発展が不可能な状態)が強かったとはいえないからである。この時期はちょうど自動車化時代の夜明けの時期でもあり、鉄道貨物輸送への期待が大きかったとはいえない。ただ経済の経済成長のおかげで存続を許されたような状態であった。そのことを反発ばねにして反対を押し切って瀬戸際作戦を展開したと理解すべきであろう。貨物輸送でいえばその瀬戸際作戦が「コンテナ化」であり、「高速直行列車化」であった。鉄道輸送は長期的には期待される存在ではなくなっていた。通運貨物も1960年代の半ばまでは繁忙状態が続いたが、新混載制度の導入(昭和40年)によって急速に萎んだ。しからば5トン・コンテナは失敗であったかといえば、どうやらそうではなさそうである(内航海運の長老に尋ねたところ高い評価をしておられた。積み替えなしに細街路に入れるという利点もある)。わが国の鉄道輸送にとって理にかなっているということである。とはいっても何事もそうであるが、都合のよいこと悪いこと、有利なこと不利なことのバランスがとれるとはいえない。というようなわけで国鉄貨物輸送にとってコンテナ化政策は列車体系の高速化と共に避けて通れなかった戦略であったという見方が成立するといってよかろう。
このコンテナ化戦略を達成されたのは故橋元雅司氏(元国鉄副総裁)であり、国鉄貨物輸送の近代化に大きな足跡を残されたことは率直に評価すべきであろう。国鉄の長老がヤード(操車場)経由の集結輸送こそがもっとも効率的輸送システムであると堅く信じておられる中での高速直行体系へのシステム・チェンジは大きな事業であった。
こうしてみるとコンテナ化と列車体系の近代化は鉄道貨物輸送近代化の双子の兄弟であることがよくわかる。しかし、その背後には筆舌に尽くしがたい苦難があったことを忘れるわけにはいかないであろう。その第1は、国鉄財政の赤字化が進み、それが原因になって経営の財政責任が年々強くなっていった。第2はそれに関連して労働組合運動が熾烈になり経営環境が大きく変化した。第3は一般物価の高騰から運賃・料金の引き上げが凍結されることが多く財政責任が極度に悪化したことなどが大きな特徴である。要するに企業体としての国鉄は崩壊し、国鉄貨物輸送システムをベースにして自社の物流システムを構築しようとした東芝のような企業に大きな損害を与えた。今にしておもえば国の責任、企業の責任があいまいであったといわざるをえないであろう(例えば公共料金を規制して私企業に負担を強制しても責任をとろうとしない。)。
コンテナ化というきわめて具体的なテーマから入りながら、国鉄問題にまで脱線したが物流における経営問題は次から次に後を絶たない難しい状態が続いている。
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第13回 物流と通運業――鉄道貨物輸送のクロノロジー(年代記)―
- 2009-10-23 (金)
- 物流
前回は、鉄道輸送のクロノロジーと題して、貨物輸送の話について述べた。今回以後、鉄道輸送を細分化して「鉄道輸送の近代化」という視点から述べてみたい。今風にいえば物流の近代化の鉄道版ということになる。物流の要素は、包装、荷役、保管、輸送、情報・連絡に5分割されるのが慣わしである。これはいわば「機能的分類」、昔流に言えば「職能別」分類である。これだけを見れば中身もわかったような気になるが、実はそのひとつ一つがさらに分類してみないと実態がわからない。しかし、この話をしだすと長くなるから、必要に応じて触れることにする(括りすぎると実態を見失う危険がある。たとえば経済学における市場は独占と競争という二分法で括る傾向が長く続いた。)つまり、市場の「スペクトラム」(位相)という感覚がない。かって著名なイギリスの経済学者のJ.R.ヒックスは1939年に出版されて「価値と資本」という著書の中で完全競争という仮説を除くと経済学は難破するといったことがある。なぜならば不完全競争といえば中身がたくさんあって特定化できないからである。その辺を見抜いたわが国の有名な商法学者で東大教授の田中耕太郎(商法)は「商的色彩」という言い方で商取引の「スペクトラム思考」をしておられた。ついでにいえば田中教授は大学の組織論「学の独立」(教授機能と管理機能の関係の曖昧さ、つまり教職者の経営管理へのコミットメントの程度と範囲)について強烈な歴史を残した)。要するに「スペクトラム思考」をすればさまざまな組み合わせが可能になり複雑な世界になる。社会を論ずる場合には何らかの「仮説」を立てないと理論にならない。「小さな社会の方が宇宙飛行より難しい」というのはその辺のことをいう。
前回述べたことは、国鉄貨物輸送がコンテナ輸送中心のシステムに転換したプロセスについてであった。しかし、もう少し述べておく必要があろう。たから号の試運転以後、コンテナ化(パレット化とともにユニット化という)の話題は国鉄貨物の何パーセントがユニット化できるかであった。外航海運ではコンテナ船が出て大型化の方向にあったが果たして国鉄貨物輸送にどこまで適用できるかが最大の焦点であった。外航海運は荷役の近代化によるクイック・デスパッチの効果が大きく鉄道の場合とは性格が違っていた。運航距離も違うから鉄道にすぐは応用できないという見方が支配的であった。だから国鉄貨物輸送のコンテナ化にはほとんど乗り気ではなかった。というより貨物局の幹部はおおきなディレンマに突き当たった。駅施設から近代化しなければならない。着発線―荷役線―荷役ホームを全部近代化しなければならない。やがて訪れる自動車輸送との競争を意識すれば近代化が不可欠である。高度成長期には通運貨物は盛況期に入っており、国鉄も通運も大規模なシステム転換に向かう迫力はでてこない。わかってはいるが、その気にならないというディレンマである。日通総合研究所の大森社長が声高に「協同一貫輸送」(コンテナ化・パレット化)の重要性を唱導されたが現場は(「3種の神器」の急成長、東京オリンピックなど)毎日が忙しくそれどころではなかった、ということであろう。当時(60年代(昭和30年代後半)前半)が通運事業の絶頂期であった。ここで貨物局は「物資別輸送」に効率化の活路を求め始めた。高速化(地域間急行-いわゆる「地急」)、大規模ターミナル、ヤードの近代化などー荷役の近代化から始まった物流の近代化が輸送の高速化・ターミナルの大規模化という鉄道貨物輸送の近代化である。その間、つまりたから号の試運転からフレートライナー列車の導入まで10年―この期は「システム・チェンジの10年」である。しかし、自動車輸送との激突の10年でもあった。
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第12回 物流と通運業――鉄道輸送のクロノロジ-(年代記)――
- 2009-09-25 (金)
- 物流
今年は国鉄コンテナ列車(たから号)が初めて運転されてから50周年になるという。それと因縁めいた話がある東名高速道路も全線開通してから40周年になる。
そのこともあって今回は国鉄貨物輸送の変遷について、振り返って見たい。たから号が運転された昭和34年(1959年)といえば日本経済の高度成長が始まった年である。高度成長という言葉もその頃から使われるようになった。私の記憶では社会資本という言葉もその頃生まれた言葉である。東海道新幹線が国鉄関係者の間で話題になり始めていた。確か東京駅を何処にするかという問題が話題になった。その後の展開は昭和39年(1964年)の開通まで新幹線問題一色であった。東名高速も同様であるが、整備財源は世銀借款であり、国鉄から立花さんという方が世銀に派遣されていた時代であり、鉄道も道路も容量不足が深刻であった。どうしても都市間旅客列車の容量拡大が優先され、貨物列車が軽視される癖がついたのはそのころからであろう。それはなぜかあまり検証されたことがない。
当時の工業化は重化学工業化と呼ばれたように鉄、石炭、石油などが中心の工業化であり、「3種の神器」と呼ばれたカメラ、テレビ、洗濯機が鉄道輸送力を圧迫したということではない。電器、ミシン、洗濯機、ガラス工業品などの工業化の規模拡大か進行するにつれて徐々に車扱混載(通運貨物)が活発になり、黄金時代を迎えた。そのため、鉄道輸送力の不足状態が続いた(東芝物流の上村さんは早くから鉄道を中心に据えた物流システムの構築を意識していた。おそらく企業物流の構築を意識したはしりであろう。当時松下電器の物流は卸売業が支配しておりその要請に応じてトラックで運んでいた。つまり、メーカー物流の構築に努力した東芝物流と流通サイドに準拠した松下の違いがはっきりした。やがてメーカーが物流に関心を示して物流システム構築の重要性を強く意識するようになり現在にいたっている)。物流が受身の世界から販売戦略の手段になった。それが鉄道サイドの通運業に対する信頼の低下を生み両者の緊張関係を高める原因になった。このことがやがて国鉄貨物のコンテナ化の引き金になるのであるが、それは決して容易なことではなかった。
それは物流が鉄道からトラック輸送に転換する大きな動機となった。集結輸送体系と馴染むかどうか、線路容量は大丈夫か、在来のシステムでトラック輸送と競争しようと思えばヤードパスをしなければならない。線路容量は旅客輸送とバッティングする。国鉄側の悩みは深い。通運に対する圧力が高まり新混載制度を模索するようになった。これが通運には大きな打撃となった。
5トンコンテナ、いわゆる「ゴトコン」を採用するようになったのは、昭和38年頃である。混載貨物の平均ロットサイズが5トン程度であったからである。実際には3.5トン程度であり、混載輸送とはまるっきり違う代物である。一言で言えば儲からない輸送システムである。勢い古い輸送システムの方がよいということになる。
運賃面ではトラックの影が付きまとう。運賃を下げればトラックも下げる。経済学でいう「シュタッケルベルク競争」が生まれる。貨物がトラックに逃げる。その上、政府は公共料金規制によって価格政策硬直化させたから、賃金と物価の関係がいびつになる。こうして物価政策が結構厳しくボデイーブローのように効いてくる。そのあおりを受けて車扱混載は細るばかりである。国鉄にとってはのこされた逃げ道は革命的なコンテナ革命を利用した「高速直行列車体系」の導入である。「フレートライナー」の導入である。イギリスで導入しているらしい。それっとばかりにイギリスに調査に出かけた。その舞台は原田昇左右さんを中心とした運輸省の政策マンであった。
このようなコンテナ革命は、通運に国鉄と心中するか、それともトラック輸送に重心を移すか分かれ道となった。コンテナ革命はやがて通運にとっては悪魔の熊手となった。
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第11回 物流と通運業――鉄道設備の寿命は無限か――
- 2009-08-25 (火)
- 物流
交通のインフラストラクチャー(線路設備)の寿命はどれくらいの長さかと聞かれてもちょっと分かりにくいというのが正直なところであろう。昔から線路は会計上「取替資産」とみなしてきた。それはどういう意味かといえば、線路延長の長さにもよるが一定の耐用年数を経た後に一挙に取り替えるのではなく毎年少しずつ取り替えるから固定費的というより変動費的だから線路は取替資産として扱うのである。鉄道のように複雑な集合体の費用は固定費なのか変動費なのか分からない。
若い時に運賃・料金を考える機会があったが、「個別原価」とは何かを理解するのに時間がかかった経験がある。だれかが決めた「制度」の問題であると気がついた時にはほっとすると同時にそれはだれがいついかなる理由で決めたのかが気になった。こんな風に鉄道の原価計算は気にしだすと際限がない。鉄道のようなさまざまな設備(部品)の集合システムの価値計算はまことに厄介である。おそらく鉄道の原価計算の専門家はほんの一握りではなかろうか。
ここで前回の話に戻るのであるが、パナマ運河は永久資産なのか、仮に永久資産としても投下資本はどうして回収するのか(資本回収)が問題になる。パナマ運河の資本回収がどうなっているかは知らないが、収入があるということは「残余財産」価値があることを意味する。果たしてパナマ運河は価値があるのかないのかという重大な問題を(パナマ)国は抱え込んだことになる。資本維持の原則はどうなっているのか。話は飛躍するがこの問題はわが国でも「簡保の宿」の問題(認識の不一致)が起こったばかりであるが、ここでは触れない。
一般に施設(固定資産)は、それを使用してもしなくても価値が低下する。利用とは無関係な価値の低下は「陳腐化」(オブソレッセンス)と呼ばれる。使用によって物理的生産能力が低下する現象は資本減耗である。たとえば去年までは100トン生産できた機械が今年は90トンしか生産できなくなった現象は「資本減耗」である。機械は使用することによって価値が低下するから「減価」する。その分を価値計算から引き算(控除)する手続きが「減価償却」である。この減価償却という会計上の手続きが導入され会計学の中にどかっと根を下ろしたのは19世紀に「鉄道」がでてきてからである。資本維持が必要な設備が普及するようになったからである。減価償却制度が会計学の性格を変えてしまった。それ以後の会計学は「現代会計学」と呼ばれる。ここまでの話はいわば教科書的な話であり、ここで書くこともない話かもしれない。
しかし、減価償却という言葉の影に隠れている意味はまことに厄介である犯罪に直結しかねない意味を含んでいる。それは意図的に制度に違背した時であるが、過大に減価償却することは「利潤の費用化」を意味するから利潤隠しと等しい。それを元に運賃・料金計算をすれば詐欺になる。いきおい役所は監査に厳しい。鉄道運賃はもちろん交通関係諸料金問題について理論・制度・(実施)手続きについて徹底的に鍛えられた。なぜそこまでしなければならなかったか。もともとはトーマス・アキナスという哲学者のいう「公正取引論」に由来するのであるが、多くの学者がそのことを知らずに理論を振り回す。こんな話が話題になったのは1980年代であるから、リーガル・ガバナンス(法的統治)がようやく確立した時期である。いまやリーガル・ガバナンスの趨勢は英米法の時代になったということであろう。公共政策の学者でもついていけていないといったら言いすぎであろうか。
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第10回 物流と通運業――パナマ運河の話――
- 2009-07-24 (金)
- 物流
これまで8回にわたって本題から離れた問題について述べてきた。昨年の9月15日にはじまった金融危機の世界的波及が気になり、8回にわたってアメリカ経済を中心に書いた。それはもういいという感じをもたれた方もあるかもしれないが、港湾運送の近代化の話は通運の問題と共通するところがあるから、アメリカの話が続くことになるがあえて述べておきたい。物流のイノベーションの中でもコンテナ化がこんな効果をもったのかと思うほど「革命的」といってよいほど画期的なことであるからあえて述べておきたいというわけである。
世の中はアダム・スミスが指摘するようなバランスの取れた例ばかりでないことはいくらでもある(アダム・スミスの楽観論の否定)。自由社会を夢見て社会を自由にしたら社会は混乱し、あげくの果てに戦争になった例があることを指摘するのがポランニ(ハンガリーの経済学者の著書「大転換」(1944年))である。
鉄道の歴史でも同様である。アメリカの鉄道がスタガース法(1980年)の成立によって再編成が進み「大転換」を遂げたことは周知の通りである。ダブルスタック・トレーンや48フィートコンテナの導入などによって画期的な変化を遂げた。実はこのことがパナマ運河に壊滅的な影響をあたえる結果となったのである。これからは私の推測であるが、ロサンゼルス港の荷役の効率化を梃子にした(ミニ・ランドブリッジ)によってサービス水準が格段に向上し、ついにパナマ運河が輸送システムとしての存廃の危機を迎えるようになったのである。パナマ運河の「見かけ上の独占」によって料金の引き下げをしなかったために需要が低下し、パナマの国家財政が痛手を被ったというわけである。これはいくつかの「教訓」を残した。海上運賃は陸上運賃より安いというのが一般的通念であるが、その通念を打ち砕いた。
物流の歴史にはこの種の話はごまんとある。巨額な設備が一夜にして灰塵に帰するのである。アメリカの鉄道史を見れば、例に事欠かない。ヨーロッパの投機資金がアメリカめがけて上陸し、25万マイルに及ぶ投資をしたまではよかったが、やがて社会変動によって鉄道破綻が起こり、鉄道救済のための「破産法」が誕生した。これが現在の会社更生法の元祖である。大きくて潰せない。アメリカの鉄道はそれほど大きかったのである。パナマ運河はどうなるのだろうか。気になることばかりである。
似たような話は空港でもある。中継機能をもつアンカレッジにはかつての賑わいはない。中継空港としては陳腐化したのである。物理的には固定設備であったとしても経済的には価値がなくなったという例はいくらでもある。固定施設は不動産ではあるがその役割は年々歳々変わっていく。このことは誰でも頭ではわかっていても、その変化はなかなかわからない。このような変化は「経済的可変性」(エコノミック・タンジビリティー)といい最近注目されるようになった概念である。通運業は「ターミナル・オペレーター」という辺りが一番近い表現であるが、社会的価値とは何か。そんなことを綴ってみたい。大見得を切らないように気をつけながら述べてみたい。
30年くらい前の話であるが物流のプロ中のプロである森田さん(当時・日通総研常務取締役)が私に「通運のことはさっぱりわからない」といわれてびっくりしたことがある。その後にもう一回同じことを聞いた。これが私の頭から離れない。いったい通運とは何か。これが森田さんから受け継いだテーマである。
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第9回 序論-物流と通運業(八続)-
- 2009-06-25 (木)
- 物流
前回はルーズベルト大統領のニューデイール政策とオバマ大統領のグリーン・ニューデイール政策の関連を述べるつもりであったが、ルーズベルト大統領のニューデイール政策の性格が計画経済論(イギリスの論争)の影響を受けているといえるかどうか、受けているとすればアメリカの建国以来の自由主義とは平仄が合うのか。その辺が気になったので年表を調べてみたら、面白いことを発見した。それが1941年の「4つの自由」である。ルーズベルト大統領が1941年にあえて「4つ自由」(表現の自由、集会の自由など)を提示したのはなぜか。自由主義国家であることを宣言したのは、ソ連という社会主義国家の創立(1917年)に対する対抗意識からか、それともイギリスの経済計画論争への掣肘からか。いずれにせよ、1941年といえば日本が太平洋戦争を仕掛けた年である(12月8日開戦)。そのおなじ年に自由の再定義をしたのはなぜか。そのことが第二次大戦後の世界戦略とどのように関係するのか興味はつきない。私の解釈ではこの4つの自由が第二次大戦後のアメリカの世界戦略の前提になっていたという解釈がなりたつと思う。アメリカの人口は現在3億人くらいであるが私の記憶では2億人になったのは1967年であった。多くの移民がアメリカに上陸した。それでもアメリカの自由主義は変質しないのか。本当に自由主義であることに誇り自信をもっているのか、つきない興味が生まれる。
ところがアメリカは基本的自由をベースにした自由主義国家として君臨するのであるが、ここで2つの問題が発生することになる。一つは戦後アメリカ自由主義は諸外国の認識とどこまで調和できたかである。その後の展開はアメリカが考えていたようには進まず、とてつもなく大きな壁に突き当たってきたのではないか。1980年代のベルリンの壁の崩壊にいたる「世界的冷戦体制」に逢着したことによって脆弱な体制を生んでしまったのではないか。特に最近の経済危機はアメリカの政治・経済体制の劣化の原因になるのではないか。
戦後のアメリカによる日本支配の思想を大きく変わったと同様に、(アメリカの近隣窮乏化政策から脱皮して)経済的自律・対米キャッチアップ・ポリシー・高度経済成長路線をひた走ることができた時代は終わったとうべきであろう。
いまではすっかり忘れられているが、自動車国産是非論が論争になったことがある。国産反対派はアメリカの巨大な自動車工業に勝てない、それだけでなく経済学の比較生産費説が教えるように自動車はアメリカから輸入すればよいと主張した。それに対して国産推進派は、戦前から自動車工業の萌芽はすであり、技術陣もそれなりにあり、航空機製造から人材活用ができることなどの条件(基礎的要素条件)があることなどから自動車工業は十分に成立しうること主張した。推進派の主流は当時の通産官僚であった。
このような組立工業(特に自動車工業)の発展は1970年代になってからであるが、それまでに鉄,電器、精密機械などすでに基礎的工業化が進んでいた。このような戦後の工業化の担い手は戦前からの財閥ではなく、自動車、電器などは歴史的新参者であった。これによって日本の工業化の位相(スペクトラム)は大きく広がった。
アメリカとイギリスを振りかって見るとどうか。アメリカの自動車工業はいまやみるかげもない。ジェネラル・モーター、フォード、クライスラーのどれをとっても虫の息である。デトロイトの凋落ぶりは過酷である。鉄鋼生産にしても世界市場に占める地位はもはやいうまでもない。いままさに日本の立ち位置を明確にしなければならない。
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第8回 序論-物流と通運業(七続)-
- 2009-05-25 (月)
- 物流
前回までオバマ大統領の新政策「グリーン・ニューディール」について述べているうちに、1930年代のルーズベルト大統領のニューディール政策にいってしまった。読者にお赦し頂かなければならないが、私としてはルーズベルト大統領がなぜニューディール政策を登場させたのか、その理由をはっきりさせておきたかったからである。その理由は一にも二にも資本主義の危機といわれるほどの危機を迎えたからであるが、これほどの大きな危機を迎えたのであれば資本主義に代わる経済体制を模索してもおかしくはない。しかし、ルーズベルト大統領は資本主義的市場主義を否定せず「修正資本主義」をねらった。
ルーズベルト大統領が修正資本主義を目的にしてニューディール政策を実行したしたのはなぜか。これについては多くの学者の意見がある。最も多い意見は当時すでに世界的な経済学者であったジョン・メイナード・ケインズの学説に従ったという意見であった。確かにケインズはニューディール政策が導入される以前に「自由放任の終焉」という著書があるから、その影響を受けたといえなくもない。しかし、この点の証明はされてはいないようである。ルーズベルト大統領は確かにケインズと面談している。しかし、(私の記憶では)ケインズの影響が大きかったという証拠はなさそうである。このことはおそらく経済学者の共通の認識になっているといってよかろう。そうなるとルーズベルト大統領とケインズの間に認識のずれがあったのか、両者の間の共通の認識があったとすればどの点か、が問題になる。修正資本主義という点では両者は共通しているが具体的には共通点は乏しい。金融政策におけるグラスステイーガル法にしても交通政策における規制政策にしても、どこまでニューディール政策に関連しているのかはっきりしない。つまり、ルーズベルト大統領のニューディール政策の形成過程についてはもうひとつ釈然としない部分がある。
私は、仮説に過ぎないが当時イギリスを中心にさかんだった「経済計画論争」の中に答えがあるのではないかと思っている。その顛末は、ロシアにおけるボルシェビキ革命(ロシア革命)によって社会主義政権(1917年)が誕生したためロシアは計画経済に移行する。それを契機に1920年代のロシアの工業化(重工業化)を促進したことはよく知られている。計画経済の絶頂期であった。かたやアメリカは第一次世界大戦後の好況期を迎えるがが、イギリスは為替の旧平価解禁(1925年)により輸出が減少し、わが国は金融恐慌(1927年)とそれに続く経済恐慌(1930年)に陥っていた。その結果社会主義勢力が台頭するという事態を迎えていた。
その頃、奇しくもイギリスでは有名な「経済計画論争」が展開されていた。計画経済か市場経済かを巡るの論争である。イギリスでは市場経済派が勝利を収めるが、フェビアン社会主義による労働党政権が誕生し、労働組合主義(トレードユニオニズム)が広がる。
問題は、この論争がアメリカの経済政策にどんな影響を与えたかである。アメリカ版経済計画がニューディール政策ではなかったか。我が国では勝間田清一、稲葉秀三など昭和研究会の人々が逮捕された。という形の影響があったし、その後の「物動計画」(物資動員計画)や戦後の経済計画・国土計画(全国総合開発計画)などに大きな足跡を残した。戦後の経済企画庁を中心とした官庁エコノミスト(計画官僚)が飛躍的な影響力を行使するようになった。その一方で経済計画嫌いの吉田茂、中曽根康弘といったリベラル派の政治家を輩出した。中でも中曽根は国鉄民営化に主導的影響を残したことでも有名である。アメリカではルーズベルト政権下の1941年(昭和16年)に自由に関する再定義を余儀なくされている。なぜか。これは次回に残したい。
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