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岡田清先生の「物流清話」

第90回 総合的ロジステイクス・サービスの時代(最終回)

 アメリカでは 1900年代に入ってから荷主に「総合的ロジスティクス・サービス」を提供する企業が100社は下らない時代に入ったと言われる。このような企業のヴィジョンは、荷主の幅広い「サービス要請」に応えることである。「総合物流」という言葉は前からあるにはあったが、はっきりした内容が伴っていたわけではなかった。サードパーティー・ロジスティクスとか、コントラクト・ロジスティクス、インテグレーテド・ロジスティクスというような呼び方が生まれていた。要するにある特定の物流機能を専門的に提供するのではなく、全体的なサービスを提供する能力を備えているか、あるいはその可能性を持つサプライヤーの意味である。しかし一社で何もかも経営しなくても、企業相互の「アライアンス」(提携)によって経営する企業を意味するものでる。典型的には、サービスの受注から始まって、ピックアップ(集荷)、商品化、続いて完全なデリバリー(配送)にいたるまでの全面的な物流サービス・プロバイダーである。

 これらのサービスは伝統的には分けて販売されてきた。運送業は運送サービスだけ、倉庫業は保管サービスだけを専業にしてきた。鉄道業は、昔の国鉄は倉庫業を兼業として経営することは許可されなかった。俗にいう兼業禁止法令が機能していたからである。金融業でも同様な業種間で「垣根」が設けられてきた。銀行業と証券業の間には垣根があり、許認可行政の法令は分割されていた。その理由は、いうまでもなく「過当競争」排除が目的であった。アメリカの例では「パナマ運河法」が有名であり、鉄道業による海上運送市場支配を排除するために「兼業」を禁止することが、その目的であった。

 これらの規制が規制緩和によって業種間の境界がなくなると幅広い業種が吸収合併によって統合されるようになった。合併にまで行かなくても統合の形態は千差万別である。物流関係では(周知のように)サードパーティー・ロジスティクス、コントラクト・ロジスティクスといった新しい用語が生まれた。「インテグレーテド・ロジスティクス」(日本語でいえば「総合物流」ということになるが、法律用語として確立してはいないから、講学的学術用語の範疇に言い方に過ぎない。

 アメリカで用いられている「インテグレーテド・ロジスティクス・サービス・プロバイダー」(総合的ロジスティクス・サービス供給者)という言い方になる。1994年段階で100社以上が出現しているといわれる。一社あたりの大きさは、売り上げ規模で見て60億ドルか90億ドルになるといわれ。2000年には(1994年段階の推定)600億ドルになると推定されている。急成長してきた寄せ集め的業種の感はあり小売業におけるデパートメント・ストア的であるが顧客サービスの幅の広さが持ち味であることがわかる。わが国でも一兆円規模の会社が複数社出現しているかから、規模で見る限り大きく見劣りしているとはいえない。

 これらの業種はすでに物流業というより「ロジスティクス産業」である。それはあたかも出世魚が大きくなるにつれて魚名が変わるように新しい名前に生まれ変わる可能性を秘めている直前かもしれない。つまり新しい業種であることを示唆するものである。いずれにせよ大きいから独占的、小さいから競争的とはいえない。前にも述べたように、シャーマン・アンタイ・トラスト法は、シャーマン上院議員が徐々に企業が大きくなり世論の独占批判の声が大きくなった上院に上程したのである。アメリカでは、建国以来、独占批判の風潮が強かった。様々な独占批判の中から自前で会社を大きくした例は同業他社の吸収合併とか異業種の吸収・合併によって規模を拡大することが多い。最近では企業間関係を研究する経営学、すなわち「リレーションシップ・マネジメント」の研究が盛んになってきた。アメリカでも比較的新しい研究領域ということになっている。

 総合的ロジスティクス企業を社会として育成していくためにはそれだけの企業としての社会的地位の確立が不可欠である。運送業と倉庫業という物流基本サービスの組み合わせは違った付加価値を持っており、総合性、専門性、広域性など無限の経営戦略を示唆している。そこから企業としての安定性と成長性と健全性が高まっていくことになるといってよかろう。

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第89回 鉄道輸送の規制緩和法(スタガーズ法)の成立

(1) スタガーズ法の成立とその効果
 1980年10月14日(わが国の鉄道創立記念日と同日)は、アメリカのカーター大統領が鉄道産業の規制緩和法「スタガーズ法」(公法96-488)に調印した日である。この法律は、3-R法と4-R法で想定された運賃論と、1976年の鉄道輸送改良法の通過によって補充された一連の法律が一体となって、強力な鉄道システムの再建のための先手を打つことが目的であったが、スタガーズ法はまさにこの傾向を踏襲したものであった。

 スタガーズ法の支配的な哲学(フィロソフィー)は鉄道経営の活性化に必要な自由を提供することであった。そのこと自体がスタガーズ法のもっとも重要な規定であり、4R法によって始まった運賃の自由化ということであった。ZORFプライシングの運賃は、鉄道原価の増分比率(%)に基づいて調整するものと拡大解釈された。この規定の重要な特徴は、鉄道へ競争に対処するための低運賃をつけることを認めたり、営業費用をカバーすることを目的に運賃を上げることを認めるということであった。キャリヤーは、サーチャージ(付加料金)についても伸縮性や取消し、あるいは市場支配に関する判断や一般的運賃値上げに関する証明負担に関するルール、また最低運賃についても伸縮性が増し、個々の荷主とキャリヤー間の契約運賃協定が法定化された。

 運賃の伸縮性だけでなく、鉄道経営についても採算性の悪い路線を廃線にする権限も与えられた。この権限は、簡素化された承認手続きによってサポートされた。また、この法律は合併に対する自由化のフレームワークを提供し、鉄道に自動車運送サービスを取り込むサービスを提供するフレームを提供した。

 スタガーズ法は、MC-80に似た点として、レートビューロー(運賃審判所)の将来の役割に関する重大な役割を提起した。この法律は単一路線運賃に関する議論もしくはそれについての投票制の議論を禁じ、連絡運賃(Joint-line rates)の現行の慣行を大きく変えた。(注:長年の懸案であったレートビューローの廃止の方向への役割)

 スタガーズ鉄道法のインパクトは鉄道業の構造とバイタリテイーに重大な変化をもたらした。規制緩和に先立って、ある指導的な鉄道経営者は、この設備を持ってプレーンな(平板な)サービスを提供する産業であると述べていた。鉄道間でほとんど差がなく、運賃はコンセンサス(合意)で決まり、鉄鋼なら鉄鋼、穀物なら穀物というように特定の産業に準拠してきた。規制緩和は価格(運賃)と(設備)サービスを目的に合致するようにし、契約運賃やインセンティブを展開する機会を作り出してきた。鉄道を革新ベースで経営した自由の結果としてアクテイブな(生きている)鉄道マイルは1980年の179,000マイルから1989年には148,069マイルまで低下した。この自由の結果として「クラスワン鉄道」(第一級鉄道の数)は、1979年の45社から、合併の結果1991年には13社にまで減少した。逆に、多くの短距離鉄道は典型的にはノンユニオン(組合)であり、営業規則の少ない大企業によって吸収された。

 自動車運送業の(規制緩和法)MC-80に対する反応に似て、すべての鉄道がスタガ-ズ鉄道法に前向きに反応したわけではく、かれらの行動は過大な破壊的運賃引き下げから市場のニーズに見合う前向きなイノベーションの導入に及んでいた。スタガーズ法の下での最初の5年間は経営の安定を増し、経営の安定と財政的活力を増した。今日では鉄道は顧客ニーズに対応することによって繁栄を追及するようになっている。そうすることによって、レヴィト氏(Levitt)の批判が言うような、企業経営が近視眼的になるという批判を克服してきている。現在の鉄道成長が合併によって推進された自動車運送業務を始めたり、自動車運送業務を獲得して、インターモーダル輸送への強い傾向を反映するようになった。たとえばICCは1984年にCSXの合併とアメリカン・コマーシャルラインInc.(海運業)の合併を満場一致で承認した。これはこの国の第二の鉄道持株会社と最大の商船会社のインターモーダル所有の先駆的所有への第一歩(ステップ)であった。このインター・モーダリズムも1992年のCSX社の年次報告で立証された。それは鉄道コンテナ輸送、はしけ輸送、下請け輸送のリストを含んでいる。似たような傾向は、他の主要鉄道のバーリントン・ノーザン鉄道、ノーフォーク・サザン鉄道、ユニオン・パシフィック鉄道でも起こってきている。

(2)鉄道のマーケット・シェアの変遷
 鉄道は歴史的に合衆国大陸内で大量のトンマイルを扱っていた。ほとんどすべての都市を網羅する広範なネットワークの確立の結果として、鉄道は第二次大戦後になるまでにインターシティ貨物輸送を支配してきた。初期の繁栄は大量の貨物輸送を経済的に,多頻度で輸送できるところからきている。そのことが鉄道に独占的な地位を与えていた。しかしながら、第二次大戦後になってモーターキャリヤー(自動車運送業)との競争に直面し鉄道収入とトンマイルは低下し始めた。

 1990年には鉄道は都市間総トンマイル数が37.4%になった。2000年の計画では鉄道のシェアはこの水準に安定するだろうと想定している。鉄道マーケット・シェアは、鉄道が大きな低下を経験した1947-1970年期に比べて、鉄道マーケット・シェアの安定を示している。都市間総トンマイル数で見て鉄道は1947年には54.0%、1958年には39.2%、1980年には36.4%,1992年には37.0%であった。収入の低下は1950年のほとんど40%から1982年には20.9%にまで低下した。

 鉄道はかつては営業マイル数で見てすべてのモードの中で第一位にランクされていた。第二次大戦後は、道路とハイウェイの広範な発展がこのランクを変えた。1982年に合衆国の鉄道マイル数は16万5,000マイルであった。1989年には、スタガーズ鉄道法の(赤字線)路線廃止規定によって線路のマイル数は148,000マイルまで低下した

 長距離の大量輸送を効率的に輸送できたことが、鉄道が大きなトン数と収入を扱い続けることができた理由であった。最近の鉄道経営は、金のかかる設備のために高い固定費と、用地費(鉄道は自分の線路を維持しなければならない)、ヤードとターミナルを維持しなければならない。しかしながら、鉄道の経験では、すでに低い営業費になっている。蒸気車のデイーゼル車での取替えで鉄道のトン・マイルあたり変動費を低下させた。一層の低下のためには電化が更なる低下を可能にしている。新しい労務協定は必要な労働力を減少させ、更なる変動費を減少させている。

 最近の鉄道輸送は広範な商品を輸送するやり方から、特定の生産物の輸送に焦点を当てるようになってきている。鉄道トン数の最大のものは、改良された海路から離れたところに立地するところにシフトしている。歴史的なサービス問題にもかかわらず鉄道の固定費と変動費の関係は長距離に優れている。1950年代以降鉄道は輸送市場を車扱輸送とコンテナ輸送に分けてきている。スタガーズ法の成立以来、鉄道は標準的な鉄道サービスよりバルク産業や重量製品輸送を強調して特定の顧客ニーズに反応するようになっている。鉄道は自動車運送との協力あるいは所有によってインターモーダル輸送を拡大してきた。鉄道は合併によって例えば、ユナイテッドパーセル輸送(UPS)の主力は自動車運送業であるが、鉄道業との協力によるアメリカ最大の鉄道サービスの消費者である。鉄道は自動車運送業の吸収合併によるインターモーダルサービスを拡大している。ユニオンオンパシフィックのオーバーエクスプレスとバージラインの吸収がその例である。主だった鉄道ユーザーに改良されたサービスを提供するために先進的な鉄道は特別車両の開発に専念してきた。

 三段積みの自動車、クッション付の自動車、ダブルスタック・コンテナ、特別仕様の車両の発展に集中してきた。ユニット・トレーン全車で単一の貨物を運ぶ列車である。典型的には石炭や穀物のような単品を運ぶ列車であり、自動車産業のアセンブリー作業を支えるために使用するために用いられたものである。ユニット・トレーンは伝統的列車よりは早く安く運転できる。ヤードをバイパスでき目的地まで直接輸送できるからである。連結車は10個の車両をレールヤードにバイパスし鉄道車両の交換に必要な時間と費用を減らすことができる。ダブルスタック車両は名前のように2段の各車の容量を2倍にする。コンテナは元は車輪のないトラック・デイである。ダブルスタックはデザインの結果、損傷を減らすことができる。この技術は鉄道に応用されれば、コンテナは重量を減らし、容量が増し、積替えを容易にする。前の例は鉄道のイノベーションの広く行き渡った見方ではない。交通全体の鉄道シェア改善することは明らかである。鉄道業の伝統的な考え方の変化が起こっていることは明らかである。1970年代のサバイバルと隠れた国有化とが1980年代の鉄道ネットワークの活性化に道を開いた。鉄道は1990年代の交通となりインターモーダルのリーダーになっているという証拠がある。

(3)ユニオン・パシフィックの再生の構図
 合衆国の鉄道は過去50年間トラック輸送へ貨物輸送のよい部分が奪われてきた。この傾向に対処するためにユニオンパシフィク(UP)のような鉄道が経営構造を改めて続きをリファインし、運転手(クルーコスト)の引き下げに動きはじめられた。UPは全国の第二の鉄道であり、1987年にクオリティ・イニシアティブを採り、クルーコストを減らす方向にイニシアティブを発揮した。国の第二の鉄道会社は顧客満足と効率的資源配分とに管理された成長と収益性を重視した。

 UPのビジネスを成功に導いた主たる力は技術革新的技術の採用であった。一例を挙げれば、160箇所に分かれていた顧客サービス・オフィスをセントルイスの全国顧客サービスセンターに統合することであった。このセンターは発注から追跡にいたる2万通話を扱っている。このセンターは顧客に一箇所の接点でサービスを提供している。

 第2の例はオマハにおけるハイテク技術による発送指令技術である。100年続いた貨物取扱駅は10箇所に集約された。各サイドのディスパッチ・センターの長さは上の長さであり、デイパッチャゾーン内のすべてのレールの作動を示している。列車と線路状態を示すカラー・スクリーンが線路と列車の両方とも境がわかるようにしている。はっきり見えるカラー・スクリーンが列車と線路と列車の中の保守作業員の位置がわかるようになっている。ディスパッチ・センターと列車の連絡はUP機関車キャブで使用している。コンダクターはディスパッチ・センターと直接の連絡で、割り当てと仕事の完成を認めている。ディスパッチ・センターが出荷できる状態になっているから、顧客サービスセンターは集配できる状態になっている。コンピュータ化される前は車両が遊休状態になり予備のための遊びが出ており、連絡不備によって1日あたり14.40ドルの機会費用が失われており、UPシステム全体の18,000両では莫大な額である。

 リアルタイムの情報と作業統合は、作業効率と顧客満足の両方をドラマティックに改善し、別のサービス改善は鉄道車両とコンテナと無線システムの融合したシステムを可能にした。

 サービスの増大、新しい貨物車の導入、改装計画は自動車運送業とUPが一緒になって運送量やマーケット・シェアを取ることを可能にし、UPの改善された配送体制とその販売価格のことを知っている荷主が多くなった。UPはJ,B,Hhant,Schneider Nationalnような大手の貸切運送業者と提携し、両者にとって有利な総合運送サービスを提供している。UPの最先端の技術は、様々なミックスと効率的ルートはユニオン・パシフィック鉄道に有望な将来を提示している。

(出典)Donald J.Bowersox,  David J Closs,  Logistical Management  The Integrated、1996、pp、730.

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第88回 アメリカにおけるレートビューロー運賃の規制緩和

 旧聞に属する話でいささか恐縮であるが、1980年代から1990年代にかけて行われた運送業(鉄道とトラック)の規制緩和は、「州際通商法」(1887年、鉄道事業)と「貨物自動車運送法」を核とする連邦規制の緩和が対象であった。それより早いものとしては1987年の航空運送事業の規制緩和があったが、古くからある鉄道運送の規制緩和をモデルとして展開された規制緩和に進んだ政策展開であった。

 価格規制は、外航海運や航空運送の地域同盟運賃や集団的あるいはカンファレンス(外航海海運同盟)と独立行動としての規制があったが、1945年に成立した「レート・ビューロー」(一般物価規制)とは違ったものである。わが国の公共料金規制と同様に一般物価の社会的激変例えば戦争とか大災害を契機に導入される価格規制である。アメリカにおけるレートビューローによる規制が廃止になったのは1980年代であるから、実に50年という長きにわたってビューロー運賃規制が行われてきたことになる。

 事業規制が緩和され、ビューロー運賃規制だけが何十年にもわたって存続したのはなぜかが、アメリカ経済の戦後史を彩る規制政策の特色であった。レートビューだけが50年の長きにわたって続いた理由はどこにあったのか。このことを研究した文献は多くはないが、アメリカについて手元に一冊だけある。しかしアメリカでレートービューローの廃止には50年という歳月が必要であった。ところがとわが国の「公共料金」とその一部としての「交通料金」の規制は規制緩和政策と矛盾なく受け容れられている。「事業規制の緩和政策」と「価格規制の緩和政策」の関係はどうなるのか。

 アメリカでは、レートビューローの交通料金規制とアンタイトラスト法(独占禁止法)は矛盾するという法律学者からの指摘は古くから行われていた。結局、法律改正が行われたのが1980年代になってからであった。法律上の矛盾を放置できなくなったのである。

 ICC(規制法の性格が強い委員会)が廃止され、行政法的色彩が強くなったのは1965年であるから、一規制官庁(公正取引委員会)から政策官庁(DOT)に生まれ変わった。この法案が成立するまで交通問題は、すべて司法制度の「ケース」として扱われてきたことが、1980以後は、法案に固有な名前が付けられることになったのである。鉄道の政策については「スタガー法」(鉄道の規制緩和)が成立し、自動車運送法についてはMT-80(自動車運送法の規制緩和)がほぼ同時期に成立した。これらの法律は大きな法律であるにもかかわらず急ごしらえであったため、修正法あるいは補足法が必要となった。連邦法(全国法)であるにもかかわらず各州が採否を選択できることになっているため、新しい法律が連邦法といえるかどうかはわからない。それほど急ごしらえあったといえる法律である。

 この1935年の自動車運送法の制定以来、運送業規制の画期的な出来事は、「公法96-296」の成立であった。カーター政権の政治的優勢によって可能になったものである。

 急速な承認過程で大切なことは、ほとんどの人が賛成していることである。政治的に機が熟した形で成立したものである、モーターキャリヤー・アクト(自動車運送事業法・1980)、略して(MC-80)である。

 MC-80の規定は、有償運送が健全な競争と効率を促進するように計画された。これまでは法律の基本的前提が競争者間で競争制限的に働いたことである。許可制ではなく営業権の権利義務(引き受け義務)を課される(免許制と許可制の相違)。引き受け義務規定は規制緩和によって無条件に緩和された(「帰り荷規定」)。

 送法では例えばロサンゼルス、ニューヨーク間の輸送で帰り荷がなければロサンゼルスでの発輸送の許可が下りない規制があった。ときあたかもエネルギー危機の時期に輸送力を片道しか利用できない規制は資源の有効に反するという世論が強くなり、あれやこれやで規制政策対する批判が強くなった。また新規参入者は事業遂行責任・性格・有能性といった新規参入者の認定基準を応募者の資格とした。これは航空の規制に似た方式であった。このようなアレンジメントについても規制緩和された。

 4R法では、はじめはゾーン別伸縮運賃制(ZORF)として年率10%の範囲でテストした。しかし、年率10%の増減制が確立されたため、ICCの運賃の妥当性の10%の範囲内で決まった。ICCは運賃の平均増減率の「妥当性」(リーズナブルネス)という用語を使ってきたが、競争条件を有効に利用できなかった。加えて、ICCは競争条件によって正当化されれば、5%の伸縮ゾーンまで拡大された。しかし、この5%は競争条件によって許されるならば、運賃の変更もできた。

 1984年にICCは伸縮運賃ゾーンを5%の運賃ゾーンだけ拡張することができた。かくして幅運賃制(伸縮運賃制の導入)の矛盾が顕在化するようになり、業界の集団的運賃決定が重大な挑戦を受けることとなった。運送業者の集団的運賃形成は、レートビューローによって決定することが許されてきた。しかし、これは長い間独占禁止法との間で紛争の種であり続けてきた。広くいわれているところでは「レートビューローとアンタイトラスト法の紛争問題」という位置づけであり、この外航海運でも長年争われてきたテーマである。アメリカでは50年間の紛争の種であった。

 アメリカでは1984年以後「自動車運送運賃委員会」を制定して審議した。わが国で近い将来やがてTPPが成立すれば業界団体の役割が大きく変わり産業の存立基盤が大きく変化し、国際問題に発展することは必定であろう。運賃を業界団体で決定することは不可能になると考える必要がある(ここは前回述べた内容の再掲)。

 MC-80の有償運送に与えた構造的インパクトはドラマチックであり、認可された自動車運送業者数は増大した。1980年にICCによる規制業者は17、000社であったものが1981年に議会を通過して1年後には3500社が新規参入し、1990年のキャリヤー数は40,000社になった。その結果、イエローフレート、コンソリデートフレートウエイ、ロードウェイエキスプレス、TNTなどの大企業生まれた。これらの大企業は財務、ターミナル施設、人事などの豊富な経営資源を抱え、地域のLTL市場の再編成をうながしている。(この部分は前回の述べた内容の再掲である)。

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第87回 アメリカにおける鉄道とトラック運送の規制緩和(1980年代)の歴史

 旧聞に属する話でいささか恐縮ですが、1980年代から1990年代にかけて行われた運送業(鉄道とトラック)の規制緩和は、画期的という以上の大きな出来事であった。

(1)トラック運送の規制緩和
 1935年の自動車運送法の制定以来の運送業規制の画期的な出来事は、「公法96-296」の成立であった。これは1980年7月1日大統領のカーター大統領の調印によって成立したものであり、カーター政権の政治的優勢によって可能になったものである。

 急速な承認過程で大切なことは、ほとんどの人が賛成していることであり、政治的に機が熟した形で成立したものである。モーターキャリヤー・アクト(自動車運送事業法・1980、略して(MC-80)である。

 MC-80の規定は、有償運送が事業者間の競争と効率を促進し健全な競争と効率を促進するように計画された。これまで法律の基本的前提が競争者間で競争制限的に働いたことである。営業権は「利便と必要の証明」は、帰り荷規定を緩和した。(「帰り荷規定」とは、これまでの自動車運送法では例えばロサンゼルス、ニューヨーク間の輸送で帰り荷がなければロサンゼルスでの発輸送の許可が下りない規制があった。)あたかもエネルギー危機の時期に輸送力を片道しか利用できない規制は資源の有効利用に反するという世論が強くなった。あれやこれやで規制政策に対する批判が強くなった。また新規参入者は事業遂行責任・性格・有能性といった新規参入者の認定基準を応募者の資格とした。これは航空の規制に似た方式であった。このようなアレンジメントについても規制緩和された。

 4R法では、はじめはゾーン別伸縮運賃制(ZORF)としてテストされたが、年率10%の範囲でテストした。しかし、年率10%の増減制が確立されたため、ICCの運賃の妥当性の10%の範囲内で決まった。ICCは運賃の平均増減率の「妥当性」(リーズナブルネスという用語を使ってきた)。競争条件を有効に利用できなかった。加えて、ICCは競争条件によって正当化されれば、5%まで伸縮ゾーンが拡大された。しかし、この5%条件は競争条件によって許されるならば運賃の変更もできた。

 1984年にはICCは伸縮運賃ゾーンを5%だけ拡張することができた。かくして幅運賃制(伸縮運賃制の導入)の矛盾が顕在化するようになった。最後に、業界の集団的運賃決定が重大な挑戦を受けることになった。運送業者は集団的運賃形成が、レートビューロによって決定することが許されてきた。しかし、これは長い間独占禁止法との間で紛争の種であり続けてきた。広く言われているところでは「レートビューロとアンタイトラスト法の紛争問題」という位置づけであり、外航海運でも長年争われてきたテーマである。アメリカでは50年間の紛争の種であった。

 アメリカでは1984年以後「自動車運送運賃委員会」を制定して審議した。わが国で近い将来やがてTPPが成立すれば業界団体の役割が大きく変わり産業の存立基盤が大きく変化して、国際問題に発展することは必定であろう。運賃を業界団体で決定することは不可能になると考える必要があるというべきである。

 MC-80の有償運送に与えた構造的インパクトはドラマチックであり、認可された自動車運送業者数は増大した。1980年にICCによる規制業者は17,000社であったものが、1981年に議会を通過して1年後には3,500社が新規参入し、1990年のキャリヤー数は40,000社になった。その結果、イエローフレート、コンソリデートフレートウェイ、ロードウェイエキスプレス、TNTなどの大企業が生まれた。これらの大企業は財務、ターミナル施設、人事などの豊富な経営資源を抱え、地域のLTL市場の再編成を促してきた。

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第86回 交通産業に対する経済的規制の意味

 交通産業に対する経済的規制といえば、(1)参入規制と、(2)運賃規制の二つに分けられる。社会的規制は安全規制と社会的規制の2つである。規制緩和という場合、自動車運送、鉄道運送、航空運送、その他運送の「エージェンシー(交通機関)」に分けられそれぞれが規模を拡大してきた。その歴史、経済的規模はいずれをとっても伝統的に大きかった。20世紀以後の歴史まで考慮すると極めて大きく複雑である。古くから各交通機関は「競争と独占の問題」という(構造論的2分法ではなく)産業構造的には、独占論・競争から寡占論を利用して説明することも多くなった。例えばガルブレイスなどがそうである。

 20世紀になって、特に注目を浴びたのは自動車と鉄道の競争関係であり、それは歴史を左右するほど大きな問題であった。1869年から74年の間にかけて、「特許」と「競争」だけに頼る時代から新しい時代に対処するための法制度の確立に努めるようになった。それはアグラリアン(エコノミー)、すなわち農業中心時代から工業中心時代に脱皮する時代への転換期であった。必ずしも普遍的とはいえないまでもそれぞれの普及速度によって差はあるが、1920年代以前、20年―1940年、1940年―1976年、1976年―1980年、1980年以後といった時代区分を採用する意見が多い。アメリカは、周知のように1776年に建国して以来、鉄道建設に対する国家補助を重視してきた。交通経済学的には、生産要素としての建設労働の不足と貨幣資本の不足が著しく、外人労働と外資の調達に苦労した。当然といえば当然であるが技術力が不足していた。運賃とサービス、特に速度の向上による利用者の増加に注力した。資本蓄積の希薄な時代には外資の導入とネットワークの拡大が最大の課題であった。海路や空路の整備・充実に果たした役割も大きかった。鉄道建設に果たした役割が大きかったのは、アイルランド人と中国人であったといわれる。

 規制緩和以前の時代は、シングルライン(単線)として決定されるが、複線になると「集団的レートメイキング」(コレクティブ・レートメイキング)が普通になる。規模の経済を内部化するためである。規制緩和以前には、運賃の変更(ファイル)には「ICC」(州際通商委員会)の許可が必要であったが、規制緩和以後は、一定の範囲内(7パーセントから15パーセント)なら自由に変更可能になった。運賃規制において最大の問題とされたのは、規制それ自体より許可が下りるまでに時間がかかり過ぎたり(タイムコンシューミング)であったり、申請書の作成に時間と費用がかかりすぎることであった。申請書の「かさ」が高いことが規制緩和の必要性を証明する象徴的出来事とされた。この点はアメリカでもイギリスでも多くの場合同様であった。事業規制の主要な焦点は、参入、運賃、サービスレベルであり、1966年まではインターステート・コマース・コミッション(ICC)が規制の「胴元」であったが、1966年からは運輸省(DOT)に変更になった。前述のように現在の規制環境は、キャリヤーに対する規制目的が「信用保証」(企業の社会的信用の証明と、経営安定性の証明)が目的とされるようになった。余談ながら中央銀行や普通銀行の金融政策でも同様に性格が変わり、倒産防止的予防金融の充実とかインフレ防止の範囲内での資金量の充実に重点が移った(挙証責任の逆転)。

 都市間輸送(インターステート・トランスポート)に対する連邦政府の規制は、規制緩和が行われたとか、進んだと言われたが、「州内交通」(イントラステート・トランスポート)の規制緩和まで全国的に進んだということではない。各州の裁量(州議会に議決)によって決まる。連邦政策の追随した州が多いが果たして何割が連邦政府に追随したのかアメリカのトラック運送が規制緩和によって緩和したといえるのか検証しておく必要があろう。

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第85回 経済学における歴史研究と歴史学派

 経済学における歴史研究を重視する人は少なくない。経済学を歴史、理論、政策の3分法で考えるのが普通であり、そのどれを欠いても経済学とはいえないと考える意見は多い。しかも経済学は万国共通であると考えている人も少なくない。しかも男女の区別もない。最近の経済雑誌を手にびっくりするのは女性の書いた経済記事によく出会うことである。女性の参加が多くなったのは政治でも同様である。そのレベルも決して低くはないように見受けられる。外国への留学生も少なくない。

 いずれにせよ経済学を研究するとなると古くは、ケンブリッジ大学、オックスフォード大学、LSE(ロンドン・スクール・オブ・エコノミックス)などでの研究が主流の地位をしめていたが、第二次大戦後になるとハーバード大学、シカゴ大学、スタンフォード大学、コロンビア大学などが頭角をあらわしてきた。金融・貨幣経済学では古くからイエール大学が有名であった。

 19世紀の終りに「アメリカ経済学会」が誕生したころは、アメリカの若い研究者は、ドイツに留学した人とイギリスに留学した人に分かれた。イギリスに留学した人のどれくらいの割合がかはわからないが、経済学はアダム・スミスをはじめリカード、マルサスなどがすでに中心的存在であったので、イギリス組も決して小さい人数ではなかったと思われる。しかし、わが国からはドイツへの留学生が多く、当時の円高の恩恵を受けて、たくさんの洋書、特にドイツ語の参考書が廉価で購入できたため、たくさん入手して帰国した人が多かったという。

 イギリスの経済学者で、歴史研究を重視した学者として有名なのは、W・Cunninghama,(1849-1919)「イギリス工業と商業の成長」(1921)であろう。明らかな記述的経済史書であり、今でも通用する立派な内容の著作である。この内容なら「歴史学派」といってもなんら問題はないように思われる。カニンガム自身は1849年生まれで1919年死亡であるから、19世紀最後の晩年を経済史研究に割いたということになる。イギリス産業革命の最盛期(農業経済から工業経済に脱皮し、鉄道や航空の発展の効果が大きかった)といってよかろう。

 イギリス経済学者のカニンガムはイギリス歴史学派と呼ばれるくらいドイツ歴史学者に負けない研究をした。イギリスの同時代の理論的経済学者であるアルフレッド・マーシャル(1842-1924)は、歴史研究というよりは後に、「新古典派経済学者」と呼ばれるようにカニンガムと違って理論研究に勢力を傾けた。中でも経済を「短期」、「長期」にわけて「期間分析」を重視したことで有名である。中でも注目を集めたのは、「需要の価格弾力性」のような具体的な計数的分析に道を開いた。それが後に統計学と合体し、「計量経済学」へと連なる展開を見せるようになると経済学の視野を広げることになる。

しかし、巷間伝えられるところによるとアルフレッド・マーシャルとカニンガムは犬猿の仲であっと言われるが、マーシャルは人格円満で他人と争うようなことはなかったということのようである。マーシャルは古典派に帰れと唱えたことから、新古典派経済学者と呼ばれ後世に大きな功績を残した。マーシャルに対する批判がなかったかといえばあるにはあったが、他人の容喙を許さない人望があり、ケンブリッジ学派とか正統派経済学者という学者集団の中心的存在でありつづけた。

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第84回 コーポレート・ガバナンスについて

 今回はコーポレート・ガバナンスについて述べてみたい。去る6月の株主総会では非常勤取締役2名の選任に苦慮された一部上場企業が多かったという報道があった。その理由は会社員がご存知とは思うが、非常勤監査役の選任が商法改正によって義務化されたからである。要するに「企業統治」制度改正という意味であるが、長い間監査役という職種はわが国の取締役会では重みの置かれた役職とは見られなかった。会計監査といえば国税庁の税務監査(外部監査)が一番怖い存在であり、次が会計士監査(外部監査)、最後が監査役監査(内部監査)で馴れ合いが効くと見られてきた。監査役は会計士と丁々発止の論争になることもある。会計監査だけでなく業務監査でも外部監査が重要になる。そうなると外部監査は弁護士や会計学専門の大学教授が指名される例が多くなった。そのため有能な専門家は何ヶ所かの企業から委嘱されることになる。さりとて重役の人数も減らさない株主代表訴訟の対象になることもありうる。つまり、取締役会も経営の効率化の対象にされることになった。俸給も社長査定ではなく委員会査定が普通になってきた。これが「コーポレート・ガバナンスの効率化」である。

 こうなると「ガバナンスの効率化」が、経営学が専門の学問の対象になるかもしれない。経営学が取引や交換の社会現象の価値を研究することだとすれば「交換」や「取引」に取って代わる「統治」とか「支配」の研究が、「ガバナンス学」として研究の対象になるかもしれない。これに近い例を挙げるとすれば、マックス・ウェーバー(社会学者)の「支配の社会学」が近いかもしれない。

 マックス・ウェーバーによる支配の社会学では、支配を3つに分けるのが普通である。(1)カリスマ的支配、(2)伝統的支配、(3)合理的支配の3つであるが、「統治」も支配と同様に「効率の大きさ」を設定できる。内容を分類し、強度や帰属、変化を明確にしなければ「会社の企業価値」が上がらないことになるかもしれない。

 現代の経営学における組織論はもう少し行動を掘り下げたり、進化を予測したりすることが、「サイモン」のいう「限定合理性」も重要な研究課題である。

 組織の多様化がどのような変化をするのか、そのことが組織の効率をどこまで高めるのか、それは組織の役割を高めることになるのかといった問題が出てくることになり、「組織の効率」の研究に道を開くことになる。こんな所から組織論の進化に道を開くことになる。

 かくして、オリバー・ウィリアムソンは経済組織論として、従来の経済学の枠を超えて産業組織、組織理論、会社統治、労働組織、会社組織、企業と市場の関係、企業と組織の関係、企業の裁量の慢性的な停滞の問題なども研究の対象にするようになった。その合理性の範囲を「限定合理性」として定義してノーベル経済学賞に輝いたのがサイモンだとすれば、オリバー・ウィリアムソンは従来の「経済学と組織論の総合」(市場論と組織論の総合)によってノーベル賞を受賞した。この種の研究領域の総合からノーベル賞を受賞したジェイムス・ブキャナン(政治学と経済学の総合)もそうである。

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第83回 東芝の不適切会計問題(続)

 前回は東芝の「不適切会計問題について」と題して述べたが、これほど大きな問題に発展することを予想した人はいなかったのではないかと思われる。この問題の「司法判断」に偏り、一件落着としたことが問題なしとはしない。前回も触れたが、アメリカの鉄道の例では、コンティネンタルレールウエイに支払われた補助金を過去にさかのぼって全額返済を命令している。アメリカは元々、行政が弱く司法の強い国である(特に上院がそうである)。行政のない国と言ってよかろう。何もかも司法判断にゆだねるから連邦政府からコミュニティにいたるまで司法裁定によってそれを補助するのが警察である。(私の経験では、ニューヨーク・ステート・スルーウェイを走行しているときにスピード違反で停止命令にあった。お巡りさんの車に乗せられ連れて行かれたところがかなり離れた「何でも屋」(ジャックオブ・オールトレード)であった。そこに待っていたのはでっぷり太った店主であり、不服があるなら来週もう一度ここに来るかと問いかえす。それとも10ドルを今支払うかどっちをとるかという、当然10ドルをその場で支払った。見返りに市販の領収書をもらって、お巡りさんの車で自分の車まで帰った。これがアメリカの司法裁定である。ここに今わが国で問題になっている「司法取引」問題が隠されており「司法文化の違い」の問題がある。東芝問題もアメリカならどう裁くだろうかという問題が残る。

 話が少しずれてしまったが,東芝の不適切会計とも密接に関係する問題である。多くの関係者が十分に理解されている話だとは思うが、私の数年前の私の経験を補足的に話しておくことが適切であろう。それは証券取引所の非常勤監査役の会合に出席した話である。おそらく400人はいたと思われる。話の内容は忘れたが、企業内監査役の時代が終わって主流は非常勤監査役の時代が来たという話であった。アメリカはそうなっているということであったような気がする。その後、商社などの非常勤と取締役とか監査役が外部から招請される例が急増した。そんな最中の東芝の事件が起こったから「コーポレート・ガバナンス問題」が火を噴いたその結果、弁護士とか大学教授が多く招請された。東芝問題では東京理科大学の伊丹教授(元一橋大学教授)、JR東日本には伊藤元重教授(東京大学教授)など日本を代表する学者・人材が新時代の先頭を切った。しかし、ここに来て学者の質が問われることが多くなった。戦後70年の歴史を振り返ってみても適任性にかまびすしい議論があるようである。短命に終わらないようにすべきであろう。しかし、日本の大学で実力が乏しく長続きしない恐れがないとはいえない。私は今制度学派の中から抜きん出てノーベル経済学賞に輝いたウィリアムソンに注目しているが、英語は難しくなくても、なにぶんにも多作であり結構な厚さの著書が4冊もあり誰かに差し上げたいくらいである。(邦文の著書では、深尾光洋、森本康子、企業ガバナンス構造の国際比較、日本経済新聞社、1997年5月)。

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第82回 東芝の不適切会計問題について

 本欄で東芝の「不適切会計」問題に触れることは適切でないかもしれない。まだ最終決着がついたわけでもなく、大変難しい問題であるから門外漢が容喙すべきではないような気がする。有体に言えばアメリカ政府の影がないとはいえないであろう。アメリカ政府は不適切会計には古くから厳しい見方をしており、国際問題と見るべき問題を国内問題としてすり抜けようとする見方をしているのかもしれない。従って、この問題だけではなく「国際基準」から見て日本的でない対処方針を期待しているのかもしれない。それにしても東芝に課される(と予想される)課徴金は半端ではない。証券取引等監視委員会は行政処分として金融庁に勧告する方向である。今まで重視されてこなかった国際商事裁判がにわかに多忙になっている気配がある。私のところにも複数の弁護士さんから挨拶が来る時代になった。しかし、ここではこのような国際私法の問題は別にして国際公法の問題に少しふれておくだけに留めておきたい。

 アメリカの鉄道建設は「ランドグラント」という補助金で建設された例が多く、ユニオンパシフィック鉄道とセントラルパシフィック鉄道は政府補助で建設された。全体マイル18738マイルの内、8パーセントに補助がなされたに過ぎない。その中のユニオンパシフィックについて、大スキャンダルがおこった。建設会社クレデイ・モビリエは政府債券を安く入手できた。この事件は1872年にニュヨーク・サンに暴露されて事件が発覚し、歴史に残る大スキャンダルとなった。このスキャンダルが起こった時にマッキンリー大統領が暗殺された。そのあとに出たのがセオドア・ルーズベルトであり、わが国との関係では日露戦争の仲裁をしたことで有名である。また、鉄道に対する連邦政府の規制を強化したことや、鉄道運賃の原価主義を唱えたことでも有名な大統領である。

 鉄道に対する連邦政府の規制が強化され、鉄道法制が確立した。これが1920年の「トランスポート・アクト」である。1930年代には自動車運送、航空運送の規制にまで広がる。鉄道の公的規制による鉄道の衰退に拍車をかける時代を迎えた。「クレデイ・モビリエ・スキャンダル」が鉄道に対する政府規制を誘発し、「インターステート・コマース・コミッション」による連邦規制の全盛時代の全盛時代を築いたのである。この規制が1980年代まで続くのであるが、鉄道の研究者が鉄道を「自然独占産業」と見なすのが当然と考えられた。鉄道を特殊な産業と見ないで早くから普通に産業とみなしたのは、政治家のウインストン・チャーチルだけである。ことほど左様に鉄道業の規制をめぐる意見は分裂を続けていた。学者で早くから独占規制の緩和を唱えたのはアイゼンハワー政権の下で強い意見を述べたヒルトンくらいである。このヒルトンの説が現実問題となるには30年という期間を要した。

 今回の東芝の不適切会計の背景として、実際の会計の意見の不一致があったことがどの程度影響していたかわからない。東芝の原子力会計その他の特殊分野の会計処理が専門家以外にわからない問題であることは事実である。限られた専門家だけの問題でありあまりにも専門的な会計処理を会計士の責任にすることにも限界があることは否定できない。かつて鉄道会計がそうであったように専門会計を特定の個人に委ねるやり方は問題なしとしない。職業人の「道徳問題」という以外には言いようはない。

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第81回 チャンドラーの経営史の命題

 アメリカの学会でよく使われる用語に「アドミニストレーション」(管理)という用語がある。管理と訳しても特段支障はないが、ビジネス・アドミニストレーション(経営)とパブリック・アドミニストレーション(行政)はどう使い分けるかとなると迷うことがある。チャンドラーの著書では、「インダストリアル・エンタープライズ」という用語が広く使われるが、直訳すれば「工業的企業」になってしまい言葉としてなじんでいないため「工業」でもよいのかもしれない。あまり意訳してしまうと意味を取り違えてしまう危険もあるが、明治時代には発音を日本語風に発音しても結構通用したという話を聞いたことがある。
貨物輸送でよく使われる言葉に「取扱」という用語があるが、昔アメリカに留学して帰国した人が「ハンドリング」を取り扱いと直約したからいまでも詮索せずに誰でも普通に使う。適訳かどうかわからないが、先人の苦労がしのばれる用語である。これが海運の用語では英語がそのまま日本語となってしまった用語もひとつや二つではない。

  チャンドラーが「戦略と組織」という著書を執筆したときには、ドイツ歴史学派のウェルナーゾンバルトの字句も引用しながら説明している。そのこと自身に深い意味はないとしても用語の統一や定義に注目していることが分かる。次の10年ではグスターバス・スウィストは全国的な「流通」(昔は配給といった)・「販売組織」の確立との戦いが始まっている。

  1920年にアルフレッド・P・スローンという著名なGM(ゼネラル・モータ)経営者がGMを大きくしたことで有名である。そんな人でもやたらに会社が大きくなることを恐れたという話が残っている。なぜならば、当時の世論は大企業に批判的だったからである(独占イコール悪というのが当時の世論である)。そんな最中にGM擁護の見解を展開したのがヨーロッパからアメリカに亡命したピータードラッカーである。平たく言えばドラッカーはスローンが困ったときに救いの手を差し伸べたことになるのである。

  このことで様々なことが想像できる。アメリカのような大国であり、しかも大企業であっても世論の前には対抗できない弱みを持っていると言えるのである。アメリカでは州政府が連邦政府より強いという政治的な特色が見られる。このような政治的組織構造は想像を超える変化をもたらす。

 しかも、産業組織において分権的組織論がどのような変化を醸成するかという経済学の市場論とは別のダイナミズムが生まれることになる。つまりこれまでのような市場論とは別の組織論に立脚した新しい方向を模索する必要があろう。 要するに経済学ももう一度組織論に立脚したダイナミックシステムに注目した方向性を模索すべきであろう。チャンドラーによればアメリカは、合衆国は集権構造の統合戦略から多角的分権戦略から「妥協構造」にいたるプロセスを歩むのである。それがアメリカ流のコンビネーションとコンソリゼーションの統合戦略かも知れない。チャンドラーは経営学者に留まらず、著書は我々が想像するよりはるかに多く売れた。しかも長期にわたって売れたことで今や経営学の古典でもある。

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