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岡田清先生の「物流清話」

第23回 物流と通運業――インターモーダルとマルティモーダル(4)

 インターモーダルとマルティモーダルと題して3回にわたって述べた。そろそろ「総合交通体系」について述べなければならないが今回もこれまでの延長で用語の問題に触れておきたい。「総合交通体系」という用語が十分にこなれていないからである。具体的には何を意味するのか、解釈は統一されているのか、国によって、時代によって解釈が違うのではないかといった問題があるから誤解を生みやすい。30年くらい前に読んだアメリカの本で「総合交通体系はヒマラヤの雪男のようなものだ」という表現を見たことがある。それは、ヒマラヤには雪男がいるといわれるけれども、雪男を見た人は一人もいないという内容であった。うまい表現をつかっているのに感心して何回か引用したことがある。マルティモーダルという言葉はわが国では道路局の若手官僚が、インターモーダルに対照させる意味で使用したのが最初ではないかと思う(OECDの物流論文の執筆は日本の建設省の若手のものであり、国際的にも物流について日本が一歩進んでいたのかもしれない)。

 アメリカでも古くから言われてきた言い方でないような気がする。というのは、わが国で言われるような総合交通体系論は、アメリカだけでなくヨーロッパでも古くから「ナショナル・トランスポーテーション・ポリシー」と呼んできた。このような交通政策の全国版は、アメリカではフランクリン・ルーズベルト大統領のニュー・デイール政策の一環として、たとえばモーター・トランスポート・アクトのような個別法やその集約版(たとえばロバート・オウエンなどによる)政策(規制法ないし調整法)が中心である。

 金融政策として有名なグラス・スティーガル法(銀行業と証券業の業種区分(いわゆる垣根)の設定)は競争規制政策であるが、1980年代の、いわゆる「ビッグバン」によって規制緩和された。しかし、オバマ政権になって金融再規制(ボルカー・ルール)が導入されることになったが、銀行業、保険業、証券業の相互参入は再規制せずに、規制緩和のままのようである。つまり、「総合金融業」(金融のデパート)は認めるというものである。これを交通政策に落として見ると,マルティモーダル業(総合運送業)的相互参入は認める方向ということと等しい。いいかえれば、規制緩和の行き過ぎたところだけを直し、足らざるを補うという形とでもいうべきであろうか。その結果、企業間の提携・合併、有期権利売買(コンセション市場)などダイナミックな変化がおこる。そうなると、業種の垣根がなくなる。たとえばアメリカの東海岸の鉄道会社の社名がCSXであるように社名と実態がまったく違った会社になることもありうることになる。

 かくしてアメリカでは、おそらく鉄道業は成長産業に生まれ変わる可能性があると言ってよかろう。そのときの物流業は大化けの可能性を秘めているような気がする。アメリカの鉄道業の変わり方は予想以上である。トラック運送業や海運業も今まで敵視していたものが案外に味方になりうることに気づき始めたということかもしれない。鉄道業が大きなトラック運送業を吸収しはじめたことから分かることだが、この種の行動は従来の経営哲学からは生まれてこない発想であり、荷主がそれをけしかけている様子さえ伺われる。アメリカの鉄道業はかっては200万人の雇用を生み出していたが、それを駄目にしたのはオフレール輸送を軽視したことに原因があるようである。それを救済する役割をしたのがTOFC(trailer-on-flatcar)であるが、ただTOFCを導入しただけで明日から貨物がスムーズに動くわけではない。昔と違って、今では荷主のマーケテイング戦略と呼吸が合うことが重要である。そのためには総合物流業になることが不可欠であるという認識になったのである。それが顧客(荷主)指向の物流であり、競争優位を確保できるのである。

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第22回 物流と通運業――インターモーダルとマルティモーダル(3)

 インターモーダルとマルティモーダルと題して2回ほど述べた。ここら辺でその区別をはっきりさせておく必要があろう。インターモーダルという言い方は複数のモードが連携して輸送を完結することであり、旅客貨物を問わず現実に多くの例が見られる。航空のハブ・アンド・スポーク システムもその例であるが、その取引となると通し運賃(通算運賃)もあれば併算運賃もある。国際航空では乗り換えのことをチェンジ・オブ・ゲージ(大型機から小型機への乗り換え)と呼ぶという具合にいろいろな呼び名がある。

 それに対して「マルティモーダル・トランスポート、すなわち複数の交通モードを所有する場合はどうか」、この問題が長年にわたって続いてきた「総合交通体系をめぐる論争点であった。この問題については別の機会に述べることにするとして、前にも述べた「パナマ運河法」(1912年)の影響が強かったのか、伝統的政策としてICC(州際通商委員会、正確には州際交通委員会)が固執してきた政策であった。再度いえば、ICCは、複数の交通機関(トランスポート・モード)を一社で経営することは特別の事情がない限り(許可なしに)認めなかった(その根拠法)がパナマ運河法であった。

 この頑迷固陋な政策判断(?)をあらため1982年12月17日に鉄道による自動車運送業の所有(インターモーダル・オーナーシップ)を万場一致で認めた(Ex Parte MC-156)。これ以来、鉄道の子会社(Rail-affiliated Motor carriers) ではあるがレイルサービスのフルサービスを提供できることになった。これは(たとえば通運事業はコモンキャリアーでありながら)鉄道補助機関とも見られ二重のステイタスを持つことになるが、インターモーダル・オーナーシップが認められると独立運送人になる。これをどう見るか具体的にみないと何とも言えないが、現場では混乱の原因になりうる。運賃の建てかたひとつをとっても通算運賃の決定において混乱がおこることは広く知られている。インターモーダル輸送において「契約運賃制」が重視されるのもこの問題があるからである。アメリカにおいてスタガーズ法が成立して以来、TOFC/COFCが「インターモーダルリズム」あるいは「インターモーダル熱」が起こって以来、運賃は貨物ベースからコンテナベースに変わったのもインターモーダル輸送の効果である。

 鉄道会社としてはマーケテイング戦略上も「総合運送人」(マルチモーダル会社)として存在感を高める方向にいかざるをえなかった。アメリカにおける鉄道貨物輸送の革命はスタガーズ法の成立以後(1980年代)のことであり、大企業同士の合併、持ち株会社制度の普及、さまざまな技術革新、国境を越えた一貫輸送(海運会社の買収によるグローバル化)などに広がりを持つようになった。鉄道連合によるグローバル化などの道を模索する動きも徐々に出ている。

 しかし、さまざまな出来事を経験しながら進むことになるであろう。とはいえ、アメリカでは「マルチモーダル経営」が鉄道会社経営のなかで大きな地位をしめつつあることは間違いない。それは、1983年9月、デンバー&リオグランデ ウエスタンが48州に及ぶトラック会社を設立したことに始まる。1985年半ばにはシカゴ&ノースウエスタン、バーリントン・ノーザン、イリノイセントラル・ガルフがトラック・ビジネスへ参入、まもなく32州に行きわたった。これらはICCによって承認されたものであるが、1985年の暮れになってトラックの労働組合組織テイームスターとトラック協会からICCの決定を撤回するよう訴えを起こされたりもした。裁判所はICCの決定を撤回するよう求めたが、1986年10月に再度議会で取り上げられ争点(moot point)とされた。その結果、鉄道によるトラックの買収を広く認められるようになったため、鉄道による船社の買収など交通モード間の買収が活発になった。

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第21回 物流と通運業――インターモーダルとマルティモーダル(2)

 前回は、かの有名なシーランドという屈指の海運会社が、ICC(州際通商委員会)の規制政策が緩和される課程でマルチモーダル経営(一社で多数モードを経営するビジネス・モデル)を容認するようになったことから、ノールウエイ船社と合併するにいたった経緯を述べた(合併という言葉は英語では二つの表現がある。ひとつはコンソリデーション(旧社名が消える合併)であり、わが国でよく使われるのはマージャー(社名が消えて大きい会社の社名が残る合併)が普通であるが、両方特に分けて使う必要はないと考えられている)。

 異なったモード間の合併(鉄道会社とトラック会社、しかも大会社同士の合併)は、パナマ運河法(1914年)のためスタガーズ法(1980年)が成立するまではなかったといってよかろう。スタガーズ法(1980年)は大まかな言い方をすれば運送業の規制緩和というポリシー・アジェンダ(規制緩和という政策課題)の枠内で成立した鉄道業の規制緩和法であるが、すんなり決まったわけではない。その理由は、規制緩和をしたために鉄道に対して弱い立場にある荷主は運賃負担が多くなるから規制緩和に反対する(捕らわれの荷主)が出るからである。そのためスタガーズ法が成立してから巻き返しの再規制が提案された。コミッショナーの意見が割れる結果になりやすい。

 それは予想を遥かに超えた混乱をもたらす。当然犠牲者もでる。それでも規制緩和に熱心だったカーター大統領の再選はならず本当に涙を流した。中小鉄道業は死屍累々であるが、都市間旅客輸送はそうでもなかった。生き延びるための合併という構図は鉄道、航空、トラック、海運に共通している。航空の場合に運輸省(DoT)が安易に合併を認めるため、規制緩和を担当したアルフレッド・カーン(経済学者、CAB長官)が烈火のごとくに怒ったという話が残っている。それならいっそのこと規制問題はもう一度ICCとかCABに委ねたほうがよいといったという。規制緩和という政策は学者の判断力を徹底的に鍛えたようである。カーンは、国内航空の規制緩和の結果生まれた3つの現象(座席予約システム、マイレージ・サービス、ハブ・アンド・スポーク・システム)は予想できなかったことから、アメリカン・エコノミック・レビュウ誌で規制緩和の「サプライズ」(驚き)という題名の論文を書いた。よほどびっくりしたものと思われる。

 カーンは学者としては著書を見る限りレベルが低いとはいえないが、やはり実態の判断となるとそうでもないらしい。イギリスでは経済学者ウオルターズ(マネタリスト)とローソン(大蔵大臣)の論争が有名である(新時代の財政金融政策論争)。交通分野でいえば、マルチモーダルの経営戦略を通じて新時代の交通体系を形成する企業と市場と政府の役割を鍛える必要があるといえるのではないか。アメリカではICCの力が弱くなってから(規制緩和以後)、鉄道会社が息を吹き返してきた。つまりマルチモーダル企業(経営革命)が「総合交通体系」形成の担い手になる時代になった。パラダイムシフトの方向性が見えてきたがそれが実現にいたる道筋はまだ見えていないような気がする。規制緩和の傷跡は広く深い。脱自動車の時代を模索しているようにもみえる。いまのところはそんなところであろう。

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第20回 物流と通運業――インターモーダルとマルティモーダル(続)

 前回は、インターモーダル輸送とマルティモーダル輸送の違いについて説明するといいながら舌足らずの感が強かった。アメリカでは、「パナマ運河法」(1912年)以来、鉄道による海運の資本所有は許可されなかった。ルーズベルト大統領のニューディール政策によって成立した自動車運送事業法(1935年)では、「特別の環境下」(その経営が公共的利益になりかつ不当に競争を制限しないという条件)では鉄道による自動車運送(資本的支配)を認めた。鉄道による航空輸送はそれが副次的あるいは補完的な場合に限って陸上輸送業の航空運送を認めた。要するに、鉄道会社と自動車運送業あるいは航空運送業の共同所有は原則的に例外的許容扱いになっていたのである。

 ところが(1980年末のスタガーズ法成立後の)1980年代になって様相は一変した。航空運送も鉄道輸送も規制緩和が進み、生き残りをかけた吸収・合併が進んだ。それまでの歴代大統領の下ではできなかった交通関係産業の規制緩和が実現した。カーター大統領の粘り強い執念であった。労働組合の抵抗が強いトラック運送業が一番難しいと思われていた。鉄道サイドは規制緩和に比較的賛成であった。それを実現した法律がスタガーズ法である。この法律によって鉄道業の倒産、吸収・合併が進んだ。それまでの州際通商法(ICA)による運送法は、反トラスト法(独占禁止法)の適用除外(ATI)になっていたが、州際通商法の廃止による通商委員会の解散後は、合併の認可権は法務省に移った。そこでの認可はこれまで以上に独占性を重視するようになった。役所間の微妙な関係が生まれる。たとえば航空運送業の規制緩和をリードしたアルフレッド・カーン(経済学者)は、航空業の合併をアメリカ運輸省(DoT)が安易に許可するといって怒った、という逸話がある。競争政策の独自性が強くなったということであろう。

 スタガーズ法の成立した際に交通産業の合併を容認することになったことを受けて合併して成立したCSXという鉄道会社が異業種であるはずの海運会社の合併を仕掛けた。1986年7月半ば州際交通委員会(ICC)にアメリカ最大のフラッグ・キャリヤーであるシーランドの買収が可能かどうか尋ねた。そのときにICCの回答は、パナマ運河法の規定に違背しないからICCの正式の承認は必要でないというものであった。アメリカ運輸省はシーランドのどの航路でも競争力が低下することはないという理由で買収に賛成した。シーランドは四面楚歌であった。

 唯一アメリカン・プレジデントラインが応援に入った。シーランドは鉄道車両を所有・供給しており、ニュージャージーに鉄道ターミナルを所有していたからシーランドは鉄道会社だと抗議した。しかし、これにはICCもDoTも聞く耳をもたなかった。1987年2月11日、ICCは会社同士は競争関係にないから政府の承認は必要ではないと採決した。時のCSXの会長は後のブッシュ政権の財務長官を務めたスノー氏である。辣腕家スノーの大博打であったというべきかもしれない。

 葉タバコ輸送にコンテナを利用してコンテナ革命を起こしたシーランドは、その後ノルウエーのマースクに身売りして、いまではマースク・シーランドという世界的な海運会社である。ペンセントラルという巨大鉄道会社が倒産(1968年)して以来、カーター政権の指導力がアメリカの鉄道を救ったというべきであろう。

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第19回 物流と通運業――インターモーダルとマルティモーダル

 物流と通運業と題して述べてきたが、今回は少し表題を変えてみたい。インターモーダル輸送とマルティモーダル輸送の違いから説明してみたい。輸送について複数のモード(交通機関)を利用することは陸・海・空にわたって広く利用されているからいまさらいうまでもない。ところが所有関係となると話が複雑になる。鉄道会社が持つ海運会社(たとえば青函連絡船)とか、バス会社が経営するタクシー業とかかなり複雑に入り混じっている。その理由は歴史的発展過程の違いとか資本的所有構造などの影響が大きい。アメリカやカナダではどうかといえばインターモーダル所有は認めており、したがって相互参入も認可してきた。たとえばサーフェイス・キャリヤ(陸上運送業者)による航空フォーワーダへの参入は許されてきた(既述)。しかし、マルティモーダル(会社)、たとえば鉄道会社がバス会社、トラック会社、海運会社などを一社で経営すること(マルティモーダル会社)は長い間認めてこなかった。その理由は、1912年のパナマ運河法という法律によってマルティモーダル会社を禁止していたからである。それ以来、アメリカでは「マルティモーダル会社」は実現しなかったが、1912年法以後上院において長年論争が続いた。規制の是非をめぐってこれほど政治の場で論争になったものも少ない。それも1980年代までであった。

 ついでにいえば、それはちょうど金融におけるグラススティーガル法(銀行・証券業の垣根)の撤廃と同じであるが、それがサブプライム問題を発生させて2008年危機をもらした。その延長戦上で国が財政危機状態(裏返せばEU諸国の銀行の不良債権が大きい)にあるギリシャ、ポルトガル、アイルランド、イタリー、スペイン(PIIGS)が経済危機に至っている。アメリカのオバマ政権も金融規制(ボルカー・ルールの導入)に踏み切る勢いである。国際金融学者として著名なトリフィンがかって「トリフィンのディレンマ」と呼ばれる現象を指摘したことがある。それは「国際通貨としてのドルが増加するとドルの価値が低下するというディレンマ」である。いまヨーロッパの統一通貨ユーロでも起こっている現象である。リスク資産がふえれば増えるほど経済がブルネラブル(脆弱)状態になることを意味する。その意味で経済は少しばかりの変動には十分な抵抗力がなければならない。企業とて同じである。

 話が大きく脱線したが脱線ついでお許しを頂いて昔からいっていることを紹介させていただきたい。それは経営は「7・3の原則」にしたがって経営する必要があるというものである。安定要素を重視した経営に7割の経営資源を割き、残りの3割はリスクの大きい成長要素に経営資源を投入するというものである。安定ばかり重視した経営は成長機会を見逃す傾向が強くなる一方、成長ばかり考えていると偶発的リスクに耐え切れない。昔から中小企業の経営は「資金繰り」によって決まるといわれてきた。不況になると金があってもパタッと動かなくなるが(日銀に還流して貯まる金は「ブタ積み」と呼ばれる)、リスク要素が低下すると安心して利潤に挑戦するようになる。国の内外を問わず変動の激しい経済になっているから大企業といえども油断ができない状態になっているが、「経験」による判断力と決断力によって前進することが大切であろう。

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第18回 物流と通運業――アメリカの少量物品輸送の変遷(3)―

 アメリカの金融危機が発生して2年近くが経過した。それでも金融の正常化(出口)に到達しない状態がつづいている。ヴォルカー・ルールにしたがって新しい規制を導入する方向である。金融安定化政策の難しさを見せ付けた感じである。それに比べれば交通部門では金融危機の影響は小さい。しかし、航空の規制緩和によって世界的な業界再編が続いている。中小航空会社は倒産したり、吸収合併したり、大きな混乱が続いた。交通部門は鉄道、海運、航空、自動車運送のいずれをとっても吸収・合併(M&A)の多い歴史をもっている。もちろん諸外国でも同様である。

 その際、企業が統合したり、合併することについて用語の統一がないことが多い。古くは「合同」という言葉もよく使われた。銀行が合併してできた新しい銀行か「合同銀行」である。合同は英語でいえばConsolidationにあたるが、最近の用語でいえば統合ということであろう。合併といっても間違いではないが、合併にはMergerという用語を使うから区別した方がよさそうである。しかし、アメリカの書物ではコンソリデーションといえば2社以上が合併して新しい会社になることをいい、マージャーは吸収する立場と吸収される立場がはっきりしている場合の合併のようである。

 前回はアメリカのフォーワーダについて述べた。アメリカではフォーワーダは陸上であれ航空であれ本線区間の一部が違うだけでその他業務は同じ「コモンキャリヤー」と見られてきた(スタガー法(1980年)成立マデ)。有り体にいえば「間接的キャリヤー」という位置づけであり、鉄道貨物でも航空貨物でも自由に取り扱うことができる。しかもコモンキャリヤーであればラインホール(本線)・キャリヤーと同格である。そのようなキャリヤーをCAB(民間航空局)がICC(州際交通委員会)に比べて簡単に認可したから鉄道系フォーワーダ(REA)が倒産した(前回)。

 その背景には鉄道側が少量物品輸送を軽視してきたという背景もあった。荷主の庭先で集荷するときにプライス・コスト・マージンの大きい本線モードを利用することになる。これはトラックのフォーワーダでも同様である。そこから2つの新しい動きがでてきた。その1つがピギーバックによるロット貨物輸送市場である。ここでピギーバック輸送の存立条件とは何か。旧来のボックスカーに比べてプライス・コスト・マージンが不利ならばピギーバック輸送は成立しない。少量物品輸送は結局UPSあるいはフェデラル・エキスプレスなどにシフトしてREAではなかった(ここらはさらに検証しておく必要がある)。

 ピギーバックは「豚の背中」の意味であるが日本の鉄道コンテナに比べればかなり大きい。それがフラットカーの上に乗っかっているTOFC(トレーラー・オン・フラットカー)といったりCOFC(コンテナ・オン・フラットカー)である。TOFCもピギーバックも同じであるが、言葉のなじみからピギーバックの方が多用されている。

 アメリカの鉄道経済学者フリードレンダー女史(MIT教授)の研究によれば鉄道が自動車に負けた理由は古くから少量物品輸送の運賃を高く設定してきたために鉄道から自動車に貨物が転移したことであるという。これがどこまで正しいかは別として古くから農産物、鉱産物は反対運動(グレンジャー運動)に直面して値上げの容易な少量貨物の運賃を高く設定してきたこと(負担力主義運賃)は事実である。

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第17回 物流と通運業――アメリカの少量物品輸送の変遷(2)―

 前回は、アメリカにおけるフォワーダについて述べた。日本流にいえば通運業であるが、今回はアメリカの通運業、中でもREA(レールウエイ・エクスプレス・エイジェンシー)が航空フォワーダに結局負けて廃業にいたるプロセスについてそのさわりの部分を述べておきたい。

 REAが衰退し、航空フォワーダが急増したのはなぜかをはっきりさせておきたかったからである。航空フォワーダはエアラインと違って,本線区間(ラインホール)以外の業務を行うことできるが、アメリカの民間航空局(CAB,1938年創立)が認可権をもっていた。航空フォワーダが急増したためREAは衰退していったというわけである。

 航空フォワーダは、見る見るうちにREAの領域に進入した。1964年には100社であったものがわずか10年後の1973年には318社になった。営業収入も318万ドルから1625万ドルに急増した。ラインホール(本線)以外は航空フォワーダの時代になったといってよかろう。その結果、REAは1975年2月に遂に破産した。その理由は経営の怠慢なのか、それとも放漫経営なのか。規制政策を航空フォワーダに有利に運用したことが急増した原因であるというのが通説となっている。REAは前回も述べたように鉄道が出資して設立した会社である。そこに規制のゆるい航空フォワーダが進出してきて見る見るうちに市場を席巻した。これは単に経営の努力ではいかんともしがたい政策の問題である。ここに規制政策をめぐる政治と経済の複雑な関係が生まれる(それはどこの国でも同様である。)。特にアメリカの鉄道業の歴史はヨーロッパ資本(外資)を巻き込んだ歴史であり、アメリカ史を彩ったドラマであった。一昨年の金融危機とは様子は違うが、カネが踊ったという点では共通している。

 もちろんアメリカのターミナル業の争いは独立規制委員会(ICCとCAB)をバックにした航空対鉄道の戦いという要素を秘めているのである。ところがアメリカのターミナル業はここから近代化の一歩が始まるのである。航空フォワーダ対抗の手段が「ピギーバック」である。これは周知のように。コンテナと同じ単なる箱でしかないが、TOFC(トレーラー・オン・フラットカー:trailer on flatcar)がそれである。これは単に荷役の合理化だけでなく、フォワーダの資本装備になり、省力化になるから、それはそれで問題(所有と負担の関係)が発生する(運輸関係の労働問題の多くが近代化投資による。)。

 これは大変困難な問題を発生させるが、ここでは特に言及を控える。とはいえTOFCは、それがやがてインターモーダル輸送の中心になり、大きな足跡を残した。このような一連の改革を「物流革新」と呼ぶが、その内容は「インターモーダル輸送」であり、確かに格段の進歩をした。これまでも物流革新については多くが語られてきた。

 今回は話がどんどん飛躍しアメリカのターミナル業の発展史から鉄道業と航空業のドラマについて述べた。この種の話は机上の理論や紙の上からは知ることのできない話である。古老から話を聞いて記録に残す作業「オーラルヒストリー」が盛況である。通運業あるいはフォワーダ業についても「ピギーバッキング」の発展史は駅の効率にとっても大変重要である。いま金融業について「証券と銀行の関係」(ユニヴァーサルバンキング問題)が注目されているが、アメリカでは運送業の「マルチモーダル会社」について論争が展開された歴史があるので少しふれておきたい。

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第16回 物流と通運業――アメリカの少量物品輸送の変遷―

 前回はコンテナ輸送の導入をめぐる経緯について述べたが、それに関連してさまざまな問題が派生して起こった。たとえばコンテナの中の荷崩れが起こったためシートパレットや胴巻きを利用するという補助作業の問題からコンテナの駅頭滞貨の問題など結構細かい問題がある。コンテナが荷主の庭先に行ったまま返ってこないなどはいい方であり、行方不明の空コンの問題などの問題もある。そこで責任のなすりあいが起こることも少なくない。現場担当者の苦労が忍ばれる。この種の問題は外の人間にとっては目配りも気配りも届かない。中でも「荷傷み」の問題は運送業にとっては古くから大きな問題であった。輸送という見た目には易しい行為の社会関係は複雑な「責任の塊」であることは理解しづらいところである。

 今回は、アメリカの通運業の「小史」について述べておきたい。もともと通運業は大きなものを「小分け」(break bulk)することに運送の商機を見出す行為である。これだけいえばなんだそれだけかと受け止める御仁があるかもしれないが、抽象的な言い方をすれば時間、空間、情報のギャップ(差異)を利用して商業マージンを稼ぐ行為であるから、金融業、商業、情報・通信業などと似性質を多く持っている。これらの産業を足し算すれば国民経済の大半を示すことになる。その対価としての賃率・料金は扱い数量に応じて低減(taper)するのが普通であり、そのことが利潤の基になるのである。

 そんなことから通運業の主業務は「少量物品(small shipments)を集約した形で都市間ルートを動かすことである」(R.C.Lieb米・ノースウエスタン大学教授、1978年)。この定義から分かるように、通運業は自ら運送行為を行うかどうかは関係がないことになる。フォワーダの収入は75%がラインホール・キャリヤーに払い出される。いまでは廃止されたがかつてのICCの規制法のもとで通運業(Surface Freight Forwarder)といえば自動車運送業、鉄道業、水上運送業を利用して運送する運送業である。最近は「サーフェイス(地表)運送」という言い方はほとんどなくなったが、かっては航空郵便に対して「地表郵便」というのがあった。航空と地表という区分はあまり意味がないように見えるが、CAB(アメリカ・民間航空局)がサーフェイス・フォワーダをエアフォワーダに拡張して地表(陸上)の場合に比べて、より弱い基準の免許を発布したため、エア・フォワーダ(航空免許業者)が一挙に増えた。その結果、鉄道フォワーダが減少したという出来事があった。他方、1960年代初めにはICCは「ピギーバック・プラン」(次回)による大量輸送をフォワーダに認めたため「ピギーバッキング」(ピギーバック化)が進んだ。

 少しばかり話が紛らわしくなったかもしれないが、アメリカ版荷物会社であるREAについても述べておきたい。REA(Railway Express Agency)は1929年に設立された少量貨物を集貨して鉄道輸送に寄託するための会社(鉄道会社の共同出資会社)であるから、かつての国鉄の荷物会社と似た会社であり、鉄道、トラック、航空の複合輸送もできるという特色をもつ会社であった。それぞれの部門の輸送が郵便、UPS,都市間トラック輸送と競争的であった。1960年代の終わりには鉄道会社から財政的に独立したが、1975年2月に破産宣告して、国鉄の荷物会社と同じ運命をたどった。

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第15回 物流と通運業――鉄道貨物輸送のクロノロジ-(年代記)―

 国鉄貨物輸送のコンテナ化は、単純に考えればコンテナ車を導入すれば事足りると思われるが、実際には大改革であった。前回述べたように、対抗輸送機関のトラック輸送と競争していくためには駅施設から列車体系にいたるまですべての改革が不可欠だからである。貨物輸送でも急ぐ貨物は旅客輸送(旅客局扱)であった。専門家なら誰でも知っているように旅客局扱は手小荷物(手荷物・小荷物)であった。旅客局から手小荷物が消えたのは昭和49年(1974年)であった(荷貨一元化)。私の記憶ではアメリカでも、その前後に鉄道から消えてトラック輸送に転換した(大和運輸の宅急便の開業は昭和51年(1976年)である(REAからUPSへ)。

 国鉄コンテナ輸送の展開は3期に分けられる。第1期は地域間急行列車時代である。この段階は地域間急行の段階であるが、この「地急時代」のコンテナ輸送は「フレートライナー導入以前のコンテナ輸送」という方が正確かもしれない。当時の記録(当時の私の論説「協同一貫輸送をめぐる2つの問題」輸送展望74年11月号)によれば、昭和40年代に急増している(39年(1964年)115万トン、42年(1967年)500万トン、46年(1971年)1,000万トンにまで達している。)。このころにはフレートライナー(列車の直行化、昭和44年(1969年))が現れ、途方もない大きな輸送量になるという期待があった。昭和46年に発表された「運政審46答申」には4億トンという予測値を出した。この数字が異常であることはいうまでもないが、それくらい新しい高速直行輸送に期待をかけていたのである。「旅客新幹線貨物在来」(磯崎ドクトリンだと記憶している)という新幹線中心の鉄道輸送の役割にたいする1960年代の国を挙げてのスローガンの中には貨物は含まれていなかった。貨物局は離れ小島であった。そんな中での改革であった。経理局の叱咤(改革論)と貨物局(現場論)の対立は経理局が貨物局の背中を押すという展開であるが、対立的強調(弁証法的な言い方でいえば足を蹴飛ばしあいながらのアウフへーベン)がコンテナ中心の大改革だったとみることもできる。

 第2期はフレートライナーという高速列車体系の導入期である。このときのイニシアテイブは運輸省の原田昇左右氏(後の建設大臣)であった。高速直行ないしは直行輸送という言い方もそのころではなかったか。第3期は10トンコンテナによる通運事業法15条指定業者(路線トラックの国鉄利用)の参入以後である。ここではこの問題に触れる前にコンテナ輸送導入のもつ意味をはっきりさせておく必要があろう。

 ごく最近国鉄コンテナに関する上下2巻の著書が出版された。吉岡心平著「国鉄コンテナのすべて」(RMライブラリ、ネコ出版、2009年9月)がそれである。専門家の知人から教えていただき手元にあるが、詳しく書かれている内容のある出版物である。コンテナ車にもこんなに多くの種類があるのかというほどあるのに驚嘆した。コンテナ化やパレット化は当初はユニタイゼーション(ユニット化)と呼んでいた。いまでもそうであるが「戸口から戸口へ」というのが売り物であり、いわば輸送システムの完結型を目標にしていた。それはなぜかといえば、いうまでもなく輸送システムとして自動車輸送を「対抗輸送手段」と位置づけていたからである。端末輸送はどうしても自動車を利用しなければならない。システム的にはごく当たり前のことであるが、そうしなければ自動車輸送に対抗できないというのが旧来の鉄道輸送関係者のトラウマであった。ところが端末輸送となれば工場であれ商店であれ戸口から戸口へというわけにはいかない。都市の中心までとなれば大きな単位の輸送は阻まれる。ここで本音と建前の矛盾に直面する。本線輸送の大単位輸送が機能するためには大規模ターミナルが必要になるが、それは事実上困難である。このデイレンマは大きかった。

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第14回 物流と通運業――鉄道貨物輸送のクロノロジ-(年代記)―

 前回は、国鉄貨物輸送のクロノロジー(年代記)について述べたが、いまから振り返ってみればたから号の試運転(昭和34年)からフレート・ライナーが導入された昭和44年(1969年)の10年間は国鉄の歴史はじまって以来の激動期であり、いまにして思えばよくも生き残ったという感じの方が強い。それは識者からの批判があったからというより、日本経済の工業化(重化学工業化)、技術革新による新製品の急増、エネルギー転換など日本経済の高度成長を特徴づけるさまざまな変化の鉄道輸送との親和性(鉄道経済発展が不可能な状態)が強かったとはいえないからである。この時期はちょうど自動車化時代の夜明けの時期でもあり、鉄道貨物輸送への期待が大きかったとはいえない。ただ経済の経済成長のおかげで存続を許されたような状態であった。そのことを反発ばねにして反対を押し切って瀬戸際作戦を展開したと理解すべきであろう。貨物輸送でいえばその瀬戸際作戦が「コンテナ化」であり、「高速直行列車化」であった。鉄道輸送は長期的には期待される存在ではなくなっていた。通運貨物も1960年代の半ばまでは繁忙状態が続いたが、新混載制度の導入(昭和40年)によって急速に萎んだ。しからば5トン・コンテナは失敗であったかといえば、どうやらそうではなさそうである(内航海運の長老に尋ねたところ高い評価をしておられた。積み替えなしに細街路に入れるという利点もある)。わが国の鉄道輸送にとって理にかなっているということである。とはいっても何事もそうであるが、都合のよいこと悪いこと、有利なこと不利なことのバランスがとれるとはいえない。というようなわけで国鉄貨物輸送にとってコンテナ化政策は列車体系の高速化と共に避けて通れなかった戦略であったという見方が成立するといってよかろう。

 このコンテナ化戦略を達成されたのは故橋元雅司氏(元国鉄副総裁)であり、国鉄貨物輸送の近代化に大きな足跡を残されたことは率直に評価すべきであろう。国鉄の長老がヤード(操車場)経由の集結輸送こそがもっとも効率的輸送システムであると堅く信じておられる中での高速直行体系へのシステム・チェンジは大きな事業であった。

 こうしてみるとコンテナ化と列車体系の近代化は鉄道貨物輸送近代化の双子の兄弟であることがよくわかる。しかし、その背後には筆舌に尽くしがたい苦難があったことを忘れるわけにはいかないであろう。その第1は、国鉄財政の赤字化が進み、それが原因になって経営の財政責任が年々強くなっていった。第2はそれに関連して労働組合運動が熾烈になり経営環境が大きく変化した。第3は一般物価の高騰から運賃・料金の引き上げが凍結されることが多く財政責任が極度に悪化したことなどが大きな特徴である。要するに企業体としての国鉄は崩壊し、国鉄貨物輸送システムをベースにして自社の物流システムを構築しようとした東芝のような企業に大きな損害を与えた。今にしておもえば国の責任、企業の責任があいまいであったといわざるをえないであろう(例えば公共料金を規制して私企業に負担を強制しても責任をとろうとしない。)。

 コンテナ化というきわめて具体的なテーマから入りながら、国鉄問題にまで脱線したが物流における経営問題は次から次に後を絶たない難しい状態が続いている。

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