岡田清先生の「物流清話」
第40回 アメリカの鉄道政策史(14) 州際通商法の成立とその後
- 2012-01-25 (水)
- 物流
「州際通商法」(Interstate Commerce Act)は1887年2月4日、時の大統領クリーブランドのサインによって成立した。一部の州が独自に鉄道業を規制していたものが、ようやく連邦法として成立したのである。今では連邦と名が付く法律や組織は多いが、立法・司法組織を除けば全国的連邦法となったのはこれが最初である。立法府でもなければ行政府でもない独立規制委員会「州際通商委員会」という位置付けである。立法府直属の第3者的機関である。
内容的には、ずばり鉄道産業規制法であり、鉄道営業規制という性格が強いから、トラスト・バースティング(トラスト・ブーム)の一環として登場した他の石油精製・販売、あるいは銀行業などと同様に、トラストではあったが州際事業という括りとしては鉄道が最初である。後に中央銀行である「連邦準備制度理事会」(中央銀行)が連邦機関として成立するが、20世紀に入ってから全て州際通商委員会を雛形として制定されたものである(銀行のフェデラリズムについては大論争があった)。電話網は鉄道網より早く1865年に太平洋岸に到達するが、やがて連邦通信委員会の傘下に入った。なお、ヨーロッパでは鉄道は国営主義を採用して国営企業とした国が多かった。イギリスでは1948年に国営のブリティッシュ・レイルウェー(BR)とした。一言で言えば国体の差によって国営主義と民営主義に分かれていた。
アメリカの鉄道ははじめは同一州内にとどまるものが多かったが、南北戦争前後から西漸運動(westward movement)と共に都市間鉄道網が拡大した。1873年の大不況によって倒産する企業が増え、それがコンソリデーション(合併)の起爆剤になった。それを支えたのは、アメリカ経済が徐々に商業資本主義から工業・金融資本主義へ転換し、ビジネスマンの鉄道に対する見方が変わり、地方や特定都市・小都市の交通需要に役立つ交通機関という見方から都市間・広域交通需要に役立つ交通機関へと変わったことである。アメリカは南北戦争時には石炭・銑鉄生産ではイギリス、ドイツ、フランスらに後れを取っていたが、1890年代に急速に成長し、1900年前には一番手に躍り出た。日本でいえば日露戦争前後の話である。この時期に活躍した人物は、アンドリュー・カーネギー(1837-1919)、ジョン・ピアポント・モルガン(1837-1913)などである。今でもその名は有名である。
アメリカ経済の拡大と共に、鉄道に対する州政府の規制ではなく、連邦規制を求める声が高まった。鉄道の企業規模が拡大したため、地理的に広がると同時に経営の集中化(集権管理)が進んだためである。1884~85年の不況によって、1880年から1888年の間に425社が他社の傘下に入った。リース、買収もあれば合併もあるという具合である。これに注目したアーサー大統領は1883年の年次教書の中で、鉄道の乱脈経営から民衆を保護するように急かせた。
クリーブランド大統領が州際通商法にサインする前に鉄道業の経営を警戒するような2つの動きがあった。その1つはシェルビー・M・カロム(1829-1914、前イリノイ州知事)の上院特別委員会における調査である。この委員会の最終報告(1886年1月)は不当に高い運賃、個人別・場所別・貨物品目別運賃、秘密リベート、払い戻し、無料パス、株式水増し、過大資本金組み入れ、放漫経営を指摘し、独立規制委員会の創設を勧告した。これはICCの設立を予告するような内容であった。また、その調査報告の翌年の1886年、つまりICC設立の前年の1886年10月に、いわゆるウォーバッシ事件(Wabash, Saint Louis and Pacific Railroad. Company vs. Illinois)の最高裁判決が下った。その内容は州際通商を規制する権限を州に対し否認したものであり、州の境界を越える輸送の運賃を決定してはいけないという判決である。州の決定権をふさいだ形である。従って州際運賃をICCで別途決定しなければならない・これは州の容喙の余地が無いことを意味する。つまり上院の「カロム法案」(Cullom bill)と下院の「リーガン法案」(Reagan bill)と言われるものである。この2つが州際通商法(Interstate Commerce Act)の骨子であるが、厳格さを欠くため骨抜きやら論争・批判の種を撒くことになる。
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第39回 アメリカの鉄道政策史(13) 連邦法としての州際通商法成立の経緯
- 2011-12-22 (木)
- 物流
先に述べたように「州際通商法」(1887年)が制定されてから、わずか3年で「アンタイ・トラスト法」(1890年)が制定された。いずれも鉄道に対する規制法である。州際通商法は準司法的法であり、アンタイ・トラスト法も司法的性格の強い法律である。性格の似た法律が続けざまに立法したのは何故か。
州際通商法は、グレンジャー運動(1870年代)に端を発し、運賃・穀物保管料の引き下げを求める規制(州法としての運賃・料金の決定原則をめぐる裁判)を求めた農民運動を端緒としたものであるが、大陸横断鉄道が拡大するにつれて、「運賃戦争」(レート・ウォー)が広い範囲に拡大し、連邦法としての立法への要請が強まって誕生したものである。更に、60年代、70年代、80年代と断続的に長期の運賃戦争が起こったため、荷主や商人は公表運賃に対してだけでなく、運賃変動の激しさに不満を持つようになった。更にはその状況が州によって違っていたから各地で不満が更に広がっていたことは容易に推測される。
イリノイ州から始まった「グレンジャー法」をめぐる裁判において、運賃・料金の州規制を求める農民と、それに反対する鉄道サイドが真っ向から衝突した。裁判において、鉄道サイドの弁護士は、「許可権者である州は当初の契約に反していたとしても処罰をしていないのに運賃を決定する権限はない」と主張した。それに対して州サイドの主張は、1819年のダートマス・カレッジの判例を引き合いに出して自らの正当性を主張した。このような争いのことを「コンテスト」というが、農民(グレンジャー)は票を持ち、鉄道はマネーをつぎ込んだのである。そこで贈賄という餌を撒いた鉄道が多くの賛成を勝ち取った。アイオワ州では政治家のパスを廃止した。ミネソタ州とウイスコンシン州では新法の遵守に走った。旅客運賃の均一化を求める運動が起こったときには、それに対抗してセントポール鉄道とパシフィック鉄道はミネアポリスとセントポール間の運賃を3セントから5セントへ引き上げた。ウイスコンシン州では鉄道サイドは、かの有名な「ポター法」(既述)を遵守して、「ポター車、ポター・レール、ポター時間」という最悪のサービス(規制価格に合ったレベルへのサービスの引き下げ)で対抗した。結局ポター法は撤回され、他の州でも規制は緩和された。鉄道サイドは穏やかな立法措置を勝ち取ったが、1876年の一連の決定の中でアメリカ・最高裁は『自由主義』対『公共規制』という基本的なところでグレンジャー・サイドの立場に立った判決を下した。
最初のグレンジャー事件と呼ばれる「マン対イリノイ事件」(Munn vs. Illinois Case)に対する最高裁判決は、1871年のイリノイ法で決められた穀物(小麦)の倉敷料を最高料金制にすることも容認した。それと同時に、最高裁は2つの事件(ペイク対シカゴ・ノース・ウエスタン鉄道、シカゴ・バーリントン・クインシー鉄道対アイオア州)の判決では、州は鉄道の貨物旅客運賃を最高運賃として決定することができるとされた。それだけでなく、この規制は全国的立法措置が完成していなくても州際通商に応用してもかまわないとした。最高裁判決がここまで来ると全国各州の票決を待つまでもなく「連邦法」として一本化する方が合理的である。ところがマン対イリノイ法の場合には唯一反対意見が出た(一部前述)。マン対イリノイ事件の判決に対する唯一の反対意見はフィールド判事(Stephen J. Field(1816-1905))の意見であった。それは「『法の正当な手続きなしに』(due process of law)財産を奪うことになるから法的に無効である」というものであった。これは原則的にグレンジャー・サイドが州規制の勝利を勝ち取ったかに見えた。1870年代になって、鉄道への規制政策は州から全国規模に広がるようになった。連邦鉄道委員会の創設を求める法案は1871年に議会に提出されていた。前南部連邦郵政総監のリーガン(J. H. Reagan(1818-1905))は、彼の規制策を通すように下院に働きかけていた。1880年にはウイーバー(J. B. Weaver(1833- 1912))はアイオア州の鉄道は州裁判所から連邦裁判所に法的手続きを移行することに成功していた。鉄道規制は州規制には重荷だという声が上がっていたことが背景にあろう。かくして鉄道に対する規制政策は州から連邦へ移管する条件が整った。
(この辺の政治情勢(農民の投票行動)をめぐる研究(計量政治学あるいは計量経済史学)は後世の研究課題となった。)
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第38回 アメリカの鉄道政策史(12) 米国独占禁止法
- 2011-11-25 (金)
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アメリカの「アンタイ・トラスト法」は1890年に成立した独占的行動を規制する法律であり、農民に対する選挙公約として生まれた法律であった。他に多くの案があったが、オハイオ州選出の上院議員ジョン・シャーマンが上程した案が成立し「シャーマン・アンタイ・トラスト法」と呼ばれている。その後何十年にも亘って批判され続けてきた法律でもある。というのは平気な顔をして経済界から多額の課徴金を巻き上げたり、時には重役を監獄へ放り込むこともする。怖い法律である。前回述べたように「理由の如何を問わず」(par se)重罰にかけるから「ベネボレントな人」(慈悲深い善人)には向かない。レーガン大統領(1980年代)はなんとアンタイ・トラスト関係職員の80%の首を切ってしまったという記録がある。シャーマンは時代が違うとはいえ、レーガンとは全く逆に殆どの大企業や多くの中小企業の幽霊重役になったという記録もある。
話が脱線したので元に戻すと、その当時のアメリカはロックフェラーの石油資本をはじめ、産業の工業化が急速に進んだ時期であり、企業が持ち株会社(トラスト)によって独占化を進めていたのである。この現象を「トラスト・バステイング」(Trust Busting)という。だからトラストはきわめてアメリカ的な企業合同の形態である。地理的にも、かなり広い範囲にわたる社会経済運動であり、鉄道について言えばアメリカ東部から西部に至る鉄道の合併運動(Merger Movement)によって急速に大規模化が進んだ(既述)。この運動は南北戦争以後から始まったものであり、アメリカ経済において工業化が進んだ時期と重なる。
鉄道の普及と共に、企業規模の拡大、生産の機械化、中小都市の大規模化などが進み、交通問題では都市間交通と都市交通の分化(ロングホール・ショートホール問題の発生〔近距離運賃の割高問題〕)、鉱山鉄道の普及、貨物輸送品目・運賃制度の多様化、運賃競争の激化など、その後の差別運賃・リベートの一般化(ロックフェラー・トラストの運賃が8割引であるとか、大企業社員への無料パスの提供)などの自由競争の弊害が顕在化し、自由主義に反対する社会運動や労働運動の頻発や農産物価格の低下を招き、グレンジャー運動の再発などの政治運動化が起こった。鉄道経営者は株式の過剰発行(株式の水浸し:stock watering)をしたため農民に対する配当金の低下による被害が広がった。そのような背景から、「刷新運動」と「鉄道規制」を求める市民感情が広がり、それが政治運動へと広がっていった。
このような背景から、激しい鉄道運賃引き下げ競争から生まれたと言われる「カットスロート・コンペティション」(喉元を切り裂くような競争-この言葉は今では競争を嫌う極めて感情的な言葉と思われているようである-)を封じ込め、合併や協定が広がりを見せるようになった。こうして生まれた新しい独占が『トラスト』であり、具体的には『持ち株会社』(Holding Company)の別の表現であると見るのが正しいようである。シュンペターという著名な経済学者は独占を容認しているが、それは独占者であるが技術革新の推進者でもあったからである。
「アンタイ・トラスト法」は1889年にまずカンザス州で成立し、1891年には18州にまで広がった。19世紀とは違った懲罰主義的・司法取引的とは違ったところに視野を広げる必要があろう。政治・経済・文化に視角を広げながら時代に応じた選択が可能な「制度」に焦点を当てる必要があるのではなかろうか。最近注目を集めている一冊の著書、「産業政策を鍛える」という表題のF. Dobbinの著書が優れている。独占禁止だけに走り、制度論を無視した政策論として競争政策は殆ど意味がない。それには社会的良識派の人格的陶冶に期待する以外には道はない。
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第37回 アメリカの鉄道政策史(11) 独占禁止法違反事件
- 2011-10-25 (火)
- 物流
アメリカの「アンタイ・トラスト法」(Anti-trust Act,1890,独占禁止法(独禁法))の影響がわが国の産業政策にあたえる影響は決して小さくないと思われる。いろいろな事案が新聞で報道され大きな関心を呼んでいるようであるが、今回は、先ず新潟交通圏のタクシー運賃の「値上げ問題」を取り上げることとする(新聞報道だけであるから、誤解しているかもしれないことをお断りしておきたい)。
1. 事実関係
新潟交通圏のタクシー事業者25社が下限運賃に統一するカルテル(価
格・生産調整)を結んだため、その行為は独占禁止法違反(不当な取引制限)
になるので、10月13日付けで「排除措置命令」と「課徴金納付命令」を
予告する「事前通知」を発出した。課徴金は40台規模事業者で1000万
円超の額が示された。11月2日までに意見書の提出などの弁明の機会を与
える。
2. 理由
一定区分の運賃にし、初乗り短縮距離を設定しない旨の合意は公共の利益
に反しタクシー事業の取引分野の競争を実質的に制限していた。故に、運賃
を自主的に決めることや合意の消滅の確認などを取締役会で決議し公取委へ
報告を求める。
3. 課徴金算定期間
新運賃適用日から公取委立ち入り検査の前日までの間(違反行為実行期間)
の売上額に「法廷算定率」(4%)を乗じて算定。
以上が新潟交通圏の独禁法違反事件である。
これに対して、タクシー業界はもちろん労働組合、他の関連団体あるいは有識者に至るまで関心は高いようである。加えて、これが発表される前に、日本の物流6社がアメリカ司法省から米国向け航空貨物の運賃について不正な価格協定があるとして米政府に468万ドル(35億8000万円)の罰金が課されるという新聞報道があり、重ねて古河電工に対する罰金150億円の罰金が課されるという報道があったばかりであるから、(私の推測であるが)企業はもちろん業界ぐるみで震え上がったのではないか。
以下、なぜこんなことになったのかアメリカの事情を紹介しておきたい。
1. 独占禁止法とパー・セー(per se)の法理
タクシー運賃を下げすぎた(オーバー・キル)から、最低運賃まで戻すの
が、国土交通省の運賃政策の思惑である。公取はそれについては違法だとは
いわない。問題にするのは、その際に「協定行為」(談合)があったのではな
いかという一点である。他のことは一切考慮しない、最低運賃制度はもちろ
ん考慮の外である。独禁法上の違法行為である談合の立証ができれば公取は
裁判になっても公判を維持できる。「独禁法違反」かどうかの証明が公取の唯
一の目的である。
2. 独禁法の存在意義
産業政策と独禁法の関係については古くから多くの学者の批判的意見があ
る。
昨年ノーベル経済学賞の栄誉に輝いたO.E.ウイリアムソンは、「際限のない独禁」という論文を発表しており、やたらに細かい問題を取り上げると揶揄しており、その中で日本の松下のアメリカにおける違反事件を紹介している。アメリカの企業では全国で1万人の専門家が企業に雇用されているという。この異様さを批判する論文もある。
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第36回 アメリカの鉄道政策史(10) グレンジャー運動以後の展開
- 2011-09-22 (木)
- 物流
アメリカのイリノイ州で、鉄道運賃と倉庫料金の規制を求めて起された集団的運動、「グレンジャー・ムーブメント」(1870-77)が鉄道の社会的責任を世の中に知らしめた最初の事件であった。その後は、各州が独立に州法を制定して運賃規制に乗り出した。規制政策を先行させたイリノイ州のような州では最高運賃制を制定する例が多かった(同州は後に撤回して「リーズナブル運賃」に変更したが、19世紀末に再度最高運賃制を導入した。)。イリノイ州に同調するどうかであるが、統制は取れていたとはいえない。
南北戦争以後の10年間は西部の農民にとっては鉄道貨物運賃は高いように見えた(トンマイル当たり1.26セント)が、シカゴを中心に東の鉄道3社の運賃は1880年には0.81セント、90年には0.66セントにまで低下した。各州の鉄道の経営状態が違うだけでなく、鉄道の投機的行動から格差が広がり、激しい運賃引き下げ競争(運賃戦争)が常態化するようになった。州政府も為す術が無くなり、統制が取れないと見た連邦政府は鉄道に対する(運賃政策のような)社会的責任は連邦裁判所のものであるとしたが、州政府はグレンジャー事件に対する警察権は州政府のものであると強く主張した。運賃政策をめぐって州政府主義(ステイテイズム)と連邦主義(フェデラリズム)の意見が分かれた。そのあおりは鉄道も農民もともにうける結果となった。
この点はフランスの政治思想家トクビルが19世紀に指摘したところである。アメリカ政府は司法中心国家であり、統治とか支配という思想はなく州政府の立法を上院で調整するというシステムである(cf.アレクシス・トクビル「アメリカのデモクラシー」(1835年刊)、日本語訳・岩波文庫(2005.11刊))
州議会でも投票で決するのであるから、ロビイスト政治となるだけでなく、審議がますます遅れるから、「審議促進法」(19世紀末)という法律が成立したが、経済問題がいつも政治問題化することになる。その結果として生まれたのが州際通商委員会(ICC、1887年設立)である。交通規制政策を専門とする独立規制委員会であり、学者によっては第3の政府であるという。
ところが、規制政策の執行委員会として反独占委員会ができ、時としてICCとバッテイングすることがある。アメリカでは反独占委員会が設立されたのは1890年であるが、ICCに遅れることわずか3年である。もちろん中身は違うけれども、産業規制法という意味では共通している。つまり、両者はケンカ法なのである。共存できなかったときはどう裁くのかいささか気なるところである。
たとえばタフト大統領のようにICCを重視して、反独占法は無視したという例がある。ところがこれでは統制が取れない。しかし、州際通商法とアンタイ・トラスト法がバッテイングすることがあるとみえて、ついに鉄道のカルテル規制を容認する法律が成立した。この法律は「Reed-Bulwinkle法」(1948年)という鉄道のカルテルを許容する法律である。鉄道のカルテル規制は独占禁止法を根拠にしてはできなくなったという法律である。ところが、この問題とまったく同じ問題がわが国でも起こるようになった。つまり、運輸産業あるいはその関連産業が公正取引委員会の摘発をうける例がそれである。新潟市のタクシー・カルテル事件あるいは郵船航空のカルテル事件(控訴中)がそれである。「アメリカ的市場検察」の時代に入ったということであろうか。
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第35回 アメリカの鉄道政策史(9) グレンジャー運動をめぐる混乱
- 2011-08-25 (木)
- 物流
アメリカの「鉄道問題」は、鉄道運賃と倉庫料金の規制を求めて起された集団的運動である「グレンジャー・ムーブメント」(1870-77年)によって混乱が生じ、それに応えてイリノイ州が鉄道に対する全米初の「経済的規制」(1871年)を導入したことから他の州にも広がりを持つようになった。しかし州による規制には様々な困難が付き纏った。イリノイ州ではローレンス判事によって違憲だとする意見によって反対されたことから農民運動の意味が広く知れ渡り、1871年には最高運賃制による法案が成立したが、革命に近い危険な状態であったといわれる。ローレンス判事は次の選挙で再選されずに、判事が提起した違憲性の問題は脇において、運賃を単なる技術的問題(運賃規制の方法)に絞って議会を通過させる形(最高運賃制)で片付けた。
運賃・倉庫料金の規制に動いたイリノイ州議会(1871年と73年)を真似る州も出たが、各州の事情もあり統一が取れた訳ではなかった。その背後にはイリノイ・プレイリーという大平原があり、アメリカはちょうどその頃「3つの農業革命が起こり、ヨーロッパ大陸をヒンターランドにした穀倉地帯の地位を築いた」(既述)時期でもあった。アメリカにおける農業生産は1870年以後、急速に拡大した。その理由は何と言ってもアメリカ国内における交通(鉄道)の普及である。いくつかのルートによってヨーロッパ大陸に輸送された農産物の輸出総額は、3億6,100万ドル(1870年)、4億3,000万ドル(1875年)、6億8,600万ドル(1880年)、5億3,000万ドル(1885年)というように1870年代に急増している。移住者は土地を無償で入手でき、その間にジョバー(卸売り商人)がマーケテイングを担い、海上輸送もその頃から鉄船に転換した時期であったから輸送面の障害は改善されていた。そうなると多方面から穀物やメーズ(トウモロコシ)がヨーロッパ市場目がけて流れた。
このようにヨーロッパ市場には世界各地から小麦やその他の殻物が到着したから価格の低落も大きかった。農産物固有な価格変動が発生したのである。それでなくても鉄道の独占性に対する批判はそれ以前から強く出ており、農産物のように生産量に応じて価格が変動するものとは違い、鉄道運賃に対する農民の素朴な疑問や不満が蓄積されていった。穀物サイロや倉庫料金についても同様であり、運賃・料金批判が高まった。特に差別運賃とリベートに対する批判が強かった。同様にアメリカ内陸部に向けて移民が広がっていった。州によって運賃が違うから、荷主である農民は鉄道に対して低運賃となるように運賃競争を求めた。鉄道サイドは運賃値下げに反対する。そこに利害の衝突が起こり紛争の原因になるのという展開であった。農民は売れば売るほど債務がかさばる結果となった。これが「グレンジャー運動」の引き金になったのである。
輸送ルートの選択(ルート・アサインメント)でも、例えばカナダ経由が有利であるとか、ミシシッピー川を下ってメキシコ湾に出た方が有利であるとか輸送上のコスト差も無視できなかった。各州の運賃規制や税制がまったく違うことから農民と鉄道に逆の効果を生むようになった。農民に有利な運賃は鉄道に不利になり、鉄道の採算性が低下する。ポター法(既述)という低運賃を決めたウィスコンシン州の鉄道は配当が払えないだけでなく、投資が少なくなるなど弊害が出るようになった。そのため、低運賃を目的としたポター法はわずかに2年で廃止となった。かくして運賃の州規制はばらばらになり、連邦規制の方向を目指すようになった。これが「州際通商法」である。
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第34回 アメリカの鉄道政策史(8) グレンジャー法
- 2011-07-25 (月)
- 物流
アメリカの、いわゆる「鉄道問題」は、南北戦争終了後(1865年)に農民を中心にして不満が高まったことから生じた問題であった。農民(farmer)の中の農民運動に参加した集団がグレンジャー(Granger)であるが、その数が多くなると農民でないもの(unproductive)も参加した。鉄道運賃と倉庫料金の規制を求めて起こした集団的運動が「グレンジャー・ムーブメント」であり、後世に名が残る運動であった。(100年以上経った1990年代の初めにグレンジャー運動を対象にした研究論文(政治の計量分析)の例がある。)
その運動に応えて真っ先に鉄道運賃・倉庫料金の規制に動いたのはイリノイ州議会(1871年と73年)であった。その背後にはイリノイ・プレイリーという大平原があり、アメリカではちょうどその頃「3つの農業革命が起こり、ヨーロッパ大陸をヒンターランドにした穀倉地帯の地位を築いた。」
70年代の後半から80年代の初めにかけて、グレンジャー・アジテーションと呼ばれる旋風が起こり、鉄道規制が広がった。ネブラスカ、カンザス、ミズーリーなどの州が鉄道規制に成功した州であった。
イリノイ州は「プレイリー・ステート」といわれ大草原の中心州として、鉄道規制法の成立に指導的役割を演ずる一方、後の連邦規制法「州際通商法」(Interstate Commerce Act)の制定に決定的役割を果たした。各州で成立した法律が「グレンジャー法」であり、コミッショナー制を採用した例が多かった。旅客運賃は「最高運賃制」にし、貨物運賃は「距離比例制」(pro rata)とした。ミネソタ州でもイリノイ州を真似て法律を制定したが、ミネソタ州の特有な事情からグレンジャー法を維持することが困難であった。鉄道会社もそれぞれ事情が違っていたことが原因であるが、運賃は差別運賃が広く行き渡っており、リベートを支払うことが当然なことであった。株式についてはストック・ウオーターリング(水増し株)、従って低配当が横行、などと取引慣行は乱れていた。グレンジャーの力が強い鉄道路線は「グレンジャー線」と呼ばれた。1874年には、アイオワ州とウィスコンシン州も鉄道法を制定したが、アイオワ州では連邦政府から受けたランド・グランツを新規鉄道の建設に回したりしたため、鉄道会社は次の立法行動を期待するようになった。1874年のアイオワ州法は農民にとっては満足にいくものであった。というのは農民のほとんどがグレンジャーであったからである。ウィスコンシン州ではポター法(Potter Law)という法律を制定し、鉄道貨物運賃を不当に低くしたため。鉄道会社との関係が悪化した。自社の法律顧問の勧告に従って、アレクサンダー・ミッチェル社長は州知事に書簡を送り法律を無視する旨を伝えた。
このような具体例から明らかなように、州知事あるいは州政府と鉄道会社の関係は悪化が常態になった。このことは徐々に州政府の規制能力の欠如、規制政策の濫用、悪用となり、次第に地方政府から連邦政府への移管の動きが強くなった。
フェデラリズム(連邦主義)がさまざまな分野で高まってきた最初は、1887年の「インターステート・コマース・コミッション」(ICC)の成立であるが、鉄道によってスタートしたことによって、閉鎖社会が開放的になっていった。アメリカでいえば金鉱・銀鉱を求めて大西洋岸から太平洋岸に向かって人も物も動いた。南北戦争の終結までは連邦政府のランド・グランツ、州政府の財政的補助という支援によって鉄道と政府は蜜月関係を築いてきたが南北戦争の終了後は政府は鉄道を規制する立場に立つようになった。それがアメリカの鉄道の弱体化の最大の原因であるという意見は多い。この検証は容易ではないが、否定できない面の多い命題である。
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第33回 アメリカの鉄道政策史(7) 鉄道熱の時代
- 2011-06-24 (金)
- 物流
鉄道熱の時代という表題にしたが、アメリカ鉄道史の専門家からみればそんな時代はないというお叱りを受けるかもしれない。南北戦争以前にはアメリカ東部諸州では活発な鉄道建設が行われていたが、南北戦争以後になると東部の建設は下火になり、西部や南部へと急速な展開をみせたからである。まだら模様の発展であった。やがて大陸横断鉄道(5ルート)の建設になった。それを推進したのが有名な「ビッグ・フォー」(4巨頭)である。ハンティントン(Collis P. Huntinton (1821-1900))、スタンフォード(Leland Stanford、初代加州知事(1824-93))、ホプキンス(Mark Hopkins(1813-78))、クロッカー(Charles Crocker(1822-88))の4人であるが、スタンフォードとハンティントンはわが国でも有名であるが、中でもスタンフォードは世界的に著名な大学を残したことでも知られている。
弱小鉄道を合併し、4,000マイルに及ぶ巨大ネットワークを作り上げたヴァンダダービルト、スコットも著名であるが、ビッグ・フォーほどには知られていない。しかし、鉄道の注目点は「エクスターナル・ヒストリー」(拡張的ネットワーク形成史)から「インターナル・ヒストリー」(組織、経営史)へと発展した。アメリカ経済は、経営史で著名なチャンドラーが指摘するように「規模と範囲」が拡大するにつれて制御しがたいほどの投機とその額の巨額化が進み、それにまつわる贈収賄と差別化が広がっていった。
南北戦争の終了後に、時の大統領グラントは、1872年にウイリアム・ウインダムを委員長とする上院委員会に西部と南部の鉄道運賃の調査を命じた。1879年にはニューヨーク州の立法部はヘップバーン(Alonzo B. Hepburn(1846-1922)を委員長とする鉄道問題の調査委員会を設置した。その報告書は5,000ページに上る膨大な証言集であり、普通の商取引とは違うリベートや差別運賃についての証言が多い。この委員会報告は、1870年代から80年代にかけてとられていた「マサチューセッツ方式」(勧告方式、1869年)とは違った実態が細かく記述されている。運賃の決め方など、1870年代の農業州では鉄道規制の新しい方式がでるようになった。アッパー・ミシシッピー渓谷で制定された鉄道規制法は「グレンジャー法」と呼ばれた。「グレンジャー」の全国組織(National Grange of the Patrons of Husbandry)は、1867年にケリー(O.H.Kelly)がワシントンポストを退職して設立したものであり、初めは社会問題や教育問題を扱う社会組織であったが、やがて政治・経済問題も攻撃の対象になった。広げすぎて存立が危うくなったが、やがて州レベルでの鉄道規制問題になると勢いを吹き返した。
イリノイ州では、1871年と1873年の鉄道貨物運賃規制や倉庫料金が注目の対象になった。このイリノイ州の規制法はやがて周辺の農業州に伝染していった。1873年のイリノイ法をモデルにしたものであるが、各州(グレンジャー5州)の事情は違っていた。1880年代になると、グレンジャー法の問題は州レベルから全国レベルの問題になり、最高裁の事案になった。「マン対イリノイ事案」(Munn v. Illinoi Case)である。アメリカの公共政策論には必ず出てくる判例である。最高裁ではイリノイ州のグレンジャー法は適法性がないという判決になった(有名なフィールド判事の反対意見があった)。州法対連邦法の対決であり、結果的にはグレンジャー法は広く適法であるとされた。西部諸州の鉄道会社はもともと規制政策に反対であり規制政策の撤回を求めていた。レッセフェールの政策を採るか規制政策を採用するかの公共政策の分かれ道であった。その後のICC〈州際通商法〉はイリノイ州のグレンジャー法が産み落とした規制政策の元祖ということになる(それを打ち消そうとしたのが「アンタイ・トラスト法」である)。
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第32回 アメリカの鉄道政策史(6) 運河熱から鉄道熱へ
- 2011-05-25 (水)
- 物流
アメリカの交通システムが鉄道時代を迎える前に、大西洋(ニューヨーク)からエリー運河を経由してシカゴなどの内陸の新天地を求めて進んだのがアメリカ開拓史の初めであることは前回までに述べたところである。
アメリカの最初の鉄道はメリーランド州の「ボルテイモァ・オハイオ鉄道」である。1827年に許可を取り、1828年から建設が始まり、延長わずかに15マイルの鉄道が1830年に開設された。初めは馬力に頼っていたが1831年の後半からは蒸気を推進力とした機関車(イギリスから輸入)が利用され、1835年の終わりには総延長は115マイルに達した。それを契機にニューイングランド地方の各州も鉄道建設に着手したが、1837年の不況によって建設ができなくなった。しかし、不況の影響は運河建設の方に大きく、不況が運河よりも鉄道の選択を有利にした。1835年にはマサチューセッツ州にはボストンから3線の鉄道が敷かれた。1839年からはニューヨークとの定期連絡が始まっている。ニューイングランド地方における急速な鉄道建設期は1840~50年にかけてであった(鉄道建設熱)。
しかし、1850年以後になるとニューイングランド地方よりもその他の地方での鉄道建設の方が進むようになった。このような西部と南部における鉄道建設が盛んになった背景には、「土地助成制度」(ランド・グランツ)に負うところが大きかった。その恩恵を最初に受けたのはイリノイ・セントラル鉄道である。このイリノイ・セントラルスキームは最初は1836年まで遡って執行される予定であったが、1850~51年までは執行されなかった。このような土地助成制度は他の多くの州に拡大するようになった。ところが1857年の不況によって西部諸州では新線建設が停止され、ランド・グランツも装いを新たにスタートすることになった。従来の州に対する助成から、鉄道会社に直接助成をするようになった。これまで聞いたことのない規模の領土の直接助成制度がはじまったのである。
ユニオン・パシフィック鉄道とセントラル・パシフィック鉄道は1マイルあたり2万5000ドルの補助と3000万エーカーを超える土地助成を獲得することができた。ノーザン・パシフィックは期待した補助額を獲得することはできなかったが、土地助成では南北戦争(1861~65年)終了後になって、4800万エーカーの土地を獲得した。戦争の終結によって緊急の政治的必要はなくなったが、ランド・グランツの必要性は残り、過去10年の規模を超える助成が行われた。こうして1873年の不況、1880~82年の投機、84年の不況など激しい経済変動が続いた。これらの年は大陸横断鉄道に関連する年次として記憶される年でもある。1880~82年は投機の盛んな年であるが、さりとて何事も順調に進んだわけではない。セントラル・パシフィック以外の会社は簡単には進まなかった。
大陸横断鉄道という巨大なプロジェクトを実行することの難しさは当時は十分に理解されていなかったため、会社の組織と経営、あるいは政府との関係など多くの問題が潜んでいたのである(チャンドラー『アメリカビジネスの経営革命』1977年)。1825年に開通したエリー運河から1869年に大陸横断鉄道が開通するまでの44年間とその後のアメリカの経済発展は栄光の歴史であるが、20世紀に入ってからの歴史は苦難の歴史である。これをどう見るか、次回以降にもう少し話を進めてみたい。
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第31回 アメリカの鉄道政策史(5) ターンパイク、運河、鉄道の関係
- 2011-04-25 (月)
- 物流
アメリカの交通システムが鉄道時代を迎える前に「運河熱」の時代があり、その発端になったのがニューヨークからハドソン川を経由してエリー運河にいたる経路であったことはすでに述べた。このエリー運河の開通は1825年であるが、アメリカ北東部に向かう移民はこの経路をシカゴ方面に向かって進んだ。このエリー運河の開設に貢献したのが、当時の有名なクリントン州知事であった。
ニューヨーク州の運河に対してペンシルバニア州はターンパイク(1790年)で対抗した。制度的にいえばターンパイク・トラスト制度である。トラスト制度はもともとイギリスではじまったものであり、建設管理の受託者は道路建設に必要な資金を借り入れる権限を持ち、そのための利子と元金を償還する制度であるから、債券発行による資金調達制度(bond without stock)である。この制度はイギリスのターンパイク建設で発達した制度であるが、アメリカではイギリスとは違った制度を採用した。株式発行制度(stock without bond)である(現代のアメリカではリベニュー・ボンド、すなわち収入担保の債券発行制度が広く用いられている)。この制度は株式会社制度に近い制度であり、元金の償還が必要でない代わりに有限責任制度であるから、配当が必要であったり、投機的な収益(期待収益)に期待がかかることになる(株式会社の投機的性格)。アメリカの鉄道建設では土地の無償供与(ランド・グランツ)によって鉄道建設を促進し、地価の上昇・土地売買益の吸収によって収益を獲得した。鉄道会社は地価上昇・都市化という間接法によって収益を確保した(わが国の1980年代の土地バブルと同じパターン)。このやり方は鉄道中心の地域開発政策であったと言ってよかろう。
ペンシルバニア州では、ターンパイクの建設に補助を与えた。1822年までに200万ドル(マイルあたり1000ドル超、総コストの3分の1)の補助金であった。このような政策の延長線上に時の財務長官ギャラティン(1808年)や国防長官キャルホーン(1818年)の連邦政府主導型の建設計画が提案された。1806年から8年かけて提案されたのが「ナショナル・パイク」(ワシントンからミシシッピー川に至るターンパイク)である。ピッツバーグやシンシナチが重要な中継点になった道路であり、南部方向へはフィラデルフィアを中継点とするかなり良好なネットワークであった。
ニューヨーク州のエリー運河に対抗した「カンバーランド・ロード」がペンシルバニア州の後世に名が残る有名な道路となった。ペンシルバニア州は運河の建設にも精力的に取り組んだが、エリー運河の隆盛が優れていた。エリー運河の沿線には大学都市として著名なシラキュース、ロチェスター、あるいはバッファローなどの都市が発展した。エリー運河からの料金収入は、年間76万2000ドル(1826年)にもなり、1833年には倍増するほどの勢いであった。運河が開通したのは1825年であるからエリー運河の成功には長い年月はかからなかったことになる。しかし、その後運河の拡幅のために運河会社は20パーセントという高率のプレミアムつきで資金調達をしたために財政悪化の引き金となり、収入は毎年300万ドルまで増えたが(1852年)、トン当たり収入でみれば当初の3分の1に減少した(1852-3年)。そのころから運河と鉄道の「競争」(コンテスト)が始まり、1853年と59年の間に鎬(しのぎ)を削るようになった。ペンシルバニア州の運河建設が失敗に終わった例があり、埋没費用(償還不能コスト)が累積するようになった。公共事業のペンシルバニア方式(運河と鉄道の同時進行システム)は行詰まるようになった。運河の壊滅的破綻の直接的引き金を引いたのは1837年の経済危機(不況)であるが、鉄道との競争に対抗できないことこそが最大の理由であった。
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