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第12回 物流と通運業――鉄道輸送のクロノロジ-(年代記)――

  • 2009-09-25 (金) 9:00
  • 物流

 今年は国鉄コンテナ列車(たから号)が初めて運転されてから50周年になるという。それと因縁めいた話がある東名高速道路も全線開通してから40周年になる。

 そのこともあって今回は国鉄貨物輸送の変遷について、振り返って見たい。たから号が運転された昭和34年(1959年)といえば日本経済の高度成長が始まった年である。高度成長という言葉もその頃から使われるようになった。私の記憶では社会資本という言葉もその頃生まれた言葉である。東海道新幹線が国鉄関係者の間で話題になり始めていた。確か東京駅を何処にするかという問題が話題になった。その後の展開は昭和39年(1964年)の開通まで新幹線問題一色であった。東名高速も同様であるが、整備財源は世銀借款であり、国鉄から立花さんという方が世銀に派遣されていた時代であり、鉄道も道路も容量不足が深刻であった。どうしても都市間旅客列車の容量拡大が優先され、貨物列車が軽視される癖がついたのはそのころからであろう。それはなぜかあまり検証されたことがない。

 当時の工業化は重化学工業化と呼ばれたように鉄、石炭、石油などが中心の工業化であり、「3種の神器」と呼ばれたカメラ、テレビ、洗濯機が鉄道輸送力を圧迫したということではない。電器、ミシン、洗濯機、ガラス工業品などの工業化の規模拡大か進行するにつれて徐々に車扱混載(通運貨物)が活発になり、黄金時代を迎えた。そのため、鉄道輸送力の不足状態が続いた(東芝物流の上村さんは早くから鉄道を中心に据えた物流システムの構築を意識していた。おそらく企業物流の構築を意識したはしりであろう。当時松下電器の物流は卸売業が支配しておりその要請に応じてトラックで運んでいた。つまり、メーカー物流の構築に努力した東芝物流と流通サイドに準拠した松下の違いがはっきりした。やがてメーカーが物流に関心を示して物流システム構築の重要性を強く意識するようになり現在にいたっている)。物流が受身の世界から販売戦略の手段になった。それが鉄道サイドの通運業に対する信頼の低下を生み両者の緊張関係を高める原因になった。このことがやがて国鉄貨物のコンテナ化の引き金になるのであるが、それは決して容易なことではなかった。

 それは物流が鉄道からトラック輸送に転換する大きな動機となった。集結輸送体系と馴染むかどうか、線路容量は大丈夫か、在来のシステムでトラック輸送と競争しようと思えばヤードパスをしなければならない。線路容量は旅客輸送とバッティングする。国鉄側の悩みは深い。通運に対する圧力が高まり新混載制度を模索するようになった。これが通運には大きな打撃となった。

 5トンコンテナ、いわゆる「ゴトコン」を採用するようになったのは、昭和38年頃である。混載貨物の平均ロットサイズが5トン程度であったからである。実際には3.5トン程度であり、混載輸送とはまるっきり違う代物である。一言で言えば儲からない輸送システムである。勢い古い輸送システムの方がよいということになる。

 運賃面ではトラックの影が付きまとう。運賃を下げればトラックも下げる。経済学でいう「シュタッケルベルク競争」が生まれる。貨物がトラックに逃げる。その上、政府は公共料金規制によって価格政策硬直化させたから、賃金と物価の関係がいびつになる。こうして物価政策が結構厳しくボデイーブローのように効いてくる。そのあおりを受けて車扱混載は細るばかりである。国鉄にとってはのこされた逃げ道は革命的なコンテナ革命を利用した「高速直行列車体系」の導入である。「フレートライナー」の導入である。イギリスで導入しているらしい。それっとばかりにイギリスに調査に出かけた。その舞台は原田昇左右さんを中心とした運輸省の政策マンであった。

 このようなコンテナ革命は、通運に国鉄と心中するか、それともトラック輸送に重心を移すか分かれ道となった。コンテナ革命はやがて通運にとっては悪魔の熊手となった。

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